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山下芳輝の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第486回】

相手を背負った状態での判断、シュートのバリエーション、相手を生かすポストプレーなどFWとして必要な能力を高いレベルで兼ねそろえるストライカー山下芳輝。

東福岡高校で3年連続選手権に出場するなど活躍し、アビスパ福岡へ入団。3年目にはチーム得点王となる活躍を見せ将来を嘱望された。

2001年にはトルシエにより日本代表に抜擢され、ブラジル代表戦で代表デビューを飾る。2003年にはジーコにより代表に再選出され日韓戦に出場した。

福岡退団後は仙台、柏、大宮、栃木、琉球と数々のチームを渡り歩いた。

山下芳輝のJリーグ入り前


山下は1977年に福岡県福岡市に生まれた。

小学校でサッカーを始め、福岡市立香椎第三中学校へ進学しサッカー部で活躍した。

中学卒業後、名門である東福岡高校へ進学。
同学年に小島宏美(ガンバ大阪)、小石龍臣(サガン鳥栖)、西政治(アビスパ福岡)、生津将司(アビスパ福岡)、堤健吾(カターレ富山)、1学年上に有村光史(サガン鳥栖)、1学年下に古賀正紘(名古屋グランパス)、2学年下に手島和希(横浜フリューゲルス)、本山雅志(鹿島アントラーズ)、古賀誠史(横浜Fマリノス)がいる。

山下は1年次からレギュラーとして活躍。
背番号16を背負い、小島宏美との2トップで得点を量産。
選手権ではベスト4入りを果たした。

2年次にも選手権に出場するが、森崎嘉之鈴木和裕茶野隆行北嶋秀朗らをようする市立船橋に3回戦で0-2で敗れている。

3年次の選手権では山下、小島の2トップの下に本山雅志が入る布陣で福岡大会では圧倒的な強さを見せ全国への切符を手にする。
全国選手権でも順当に勝ち進むも、準決勝で南雄太、森川拓巳のいる静岡学園にPK戦の末に惜しくも敗れることになった。
ベスト4の壁を破ることは出来なかったが、山下は大会優秀選手に選出されている。

高校卒業後の1996年、地元のアビスパ福岡へ入団。
同期入団に藤元大輔(清水商業)、藤本主税(徳島市立)、佐藤光治(大津)、西政治(東福岡)、生津将司(東福岡)、中払大介(清水東)、久永辰徳(鹿児島実業)、石丸清隆(阪南大学)、上野優作(筑波大学)、塚本秀樹(明治大学)がいる。

山下芳輝のJリーグ入り後


山下は高卒1年目ながら、清水秀彦監督に抜擢されキャンプからレギュラーとしてプレー。
開幕戦のジュビロ磐田との試合でベンチ入りを果たすと、後半35分に上野優作と交代でJリーグデビューを果たした。
その後もコンスタントに出場機会を得て、第10節京都パープルサンガ戦で待望のJリーグ初ゴールをマークし3-0での勝利に貢献した。
以降はマラドーナ上野優作とのコンビで活躍。第29節サンフレッチェ広島戦でもゴールを決め、ルーキーイヤーながらリーグ戦19試合で2ゴールをマーク。

1997年初頭はU-20日本代表の一員としてオーストラリア遠征に、5月にはマレーシア遠征へ参加。
6月に開催されたワールドユース日本代表に選出され、グループリーグのスペイン戦に出場し勝利に貢献。
決勝トーナメントでは初戦のオーストラリア代表戦に出場し1-0で勝利したが、続くガーナ代表戦では出場できず1-2で敗れた。

1998年はアビスパ福岡でリーグ戦32試合でチーム得点王となる7ゴールを決める。
しかしチームは低迷し最下位となり、入れ替え戦に回る。
初戦の川崎フロンターレ戦では貴重な勝ち越しゴールを決め勝利に貢献。続くジェフ市原戦には敗れるも、コンサドーレ札幌戦に勝利に降格は免れた。

1999年はトルシエ監督により、シドニー五輪アジア1次予選を戦うU-22日本代表に選出される。
アビスパでもマスロバル中払大介との連携から6ゴールを奪う活躍を見せるがチーム状況は上向かず年間順位14位に沈んだ。

2001年は松原良香服部浩紀江口倫司、ビアージョ、ヴィラジョンガ、呂比須ワグナーといったFWとポジション争いをすることになるがリーグ戦21試合で6ゴールをマーク。
しかしアビスパはこの年J2へ降格した。
また同年、トルシエ監督により日本代表に初招集される。
6月4日のコンフェデレーションズカップのブラジル戦で鈴木隆行との2トップで代表デビュー。
続くキリンカップのパラグアイ戦にも出場するがゴールは奪えず、惜しくも2002年のワールドカップ日本代表には選出されなかった。

2002年はこの年J1に昇格したベガルタ仙台へ移籍。
マルコスとともに2トップを組みエースとして活躍。第2節コンサドーレ札幌戦では移籍後初ゴールを決め勝利に貢献。
この年は自身初となるリーグ戦全試合に出場し2桁得点をマークした。

この活躍を受け、2003年はジーコ監督により日本代表に選出。
4月16日の韓国戦で中山雅史との2トップで先発。ゴールは奪えなかったが1-0での勝利に貢献した。
しかしこの年の仙台では29試合に出場するも4ゴールしか決められず、チームはJ2へ降格した。

2004年は柏レイソルへ移籍。
シーズン序盤は玉田圭司とのコンビで出場機会を得るも、負傷により出場機会を失い、控えに回るようになる。
出場機会を求めて2005年シーズン途中には大宮アルディージャへ移籍するも出場機会は少なかった。

2006年にJ2柏レイソルへ復帰しJ1昇格を経験するも、リーグ戦5試合の出場に留まりこの年をもって柏レイソルを退団。

2007年からはJFLの栃木SCへ活躍の場を移した。
栃木では柱谷幸一監督のもと福岡時代の盟友・上野優作とのコンビでチームを牽引。
Jリーグ昇格を目指すも昇格は果たせず1年で退団することになった。

2008年からはトルシエが総監督を務めるJFLのFC琉球でプレー。
アトランタオリンピック代表の白井博幸や、元清水エスパルスの平松康平、アルジェリア代表として2014年ワールドカップに出場することになるGKライス・エンボリなどとともにチームの主軸として活躍。
2009年にはリーグ戦30試合で9ゴールを奪い、元日本代表の意地を見せた。
2010年もリーグ戦32試合に出場し4ゴールを決めるも、この年限りで琉球を退団。翌年3月に現役引退を表明した。

山下芳輝の引退後と現在

山下は引退後、サッカー指導を手掛ける会社「Glanz」を創設しサッカースクールの運営をに展開。

またJFA夢先生として各地の学校を回り、夢の大切さを伝えるプロジェクトに精力的に参加している。

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