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古橋達弥の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第487回】

チャンスメーカーにもフィニッシャーにもなれる万能FW古橋達弥。

DFとの駆け引きからからフリーになってからのボールの受け方が非常にうまく、高い位置から質の高いプレスによりショートカウンターの起点にもなれるため守備面での貢献度も高い。

高卒でJFL本田技研にサラリーマン選手として入団後、オートバイの製造ラインで勤務し、午後に練習を行うという毎日を過ごす。

本田技研では14試合連続得点を記録するなど圧倒的な得点能力を見せ、Jリーグにステップアップ。2005年にはJリーグベストイレブンに選出された。

JFL、J2、J1のそれぞれのカテゴリーで100試合出場を達成した初めての選手としても知られる。

古橋達弥のJリーグ入り前


古橋は1980年に静岡県浜松市に生まれた。

浜松市立芳川北小学校入学後、1年生の時にサッカーを始める。

浜松市立南陽中学校サッカー部で活躍後、名門の磐田東高校へ進学。
同級生に藤ヶ谷陽介(コンサドーレ札幌)がいる。

高校時代は選手権への出場は叶わなかった。
プロ入りの希望はあったものの実績のなかった古橋はJクラブの練習に参加するものの入団は叶わず、JFLの本田技研工業フットボールクラブ(現HondaFC)に入団。

本田ではオートバイの製造ラインに入って働き、午後から練習に参加するという毎日を送った。

入団1年目から出場機会を得ると、2年目には本田のリーグ2位に大きく貢献。
古橋は14ゴールを決め、得点ランキング5位にランクされるとともにリーグベストイレブンに輝いた。

3年目には本田のリーグ優勝に貢献し、2年連続でベストイレブンに選出される。

4年目の2002年は背番号10を背負い、エースとしてチームを牽引。
リーグ2連覇と得点ランキング3位、そして3年連続となるベストイレブンに選出。

5年目は優勝こそ逃したものの、リーグ戦29試合で31ゴールをマークし初の得点王に輝いた。
またこの年から翌年まで14試合連続得点を記録。この記録は日本フットボールリーグ最高記録となった。

6年目の2004年もリーグ戦15試合で15ゴールと圧巻の活躍を見せ、シーズン途中にこの年1stステージで最下位となったセレッソ大阪からオファーを受け移籍を決意する。

古橋達弥のJリーグ入り後


背番号9を与えられた古橋は加入1年目の2004年8月14日2ndステージ第1節FC東京戦で西澤明訓と2トップを組んで先発。
Jリーグ初出場となったこの試合で開始11分にJリーグ初ゴールをマーク。4-3の勝利に貢献した。
続く第2節サンフレッチェ広島戦、第4節鹿島アントラーズ戦でもゴールを決め、レギュラーに定着。
2トップの大久保嘉人、西澤明訓の後ろに位置し、得意のドリブルで攻撃の起点となった。
この年は途中加入ながらリーグ戦14試合で5ゴールをマーク。チームの降格の窮地を救った。

2005年は大久保嘉人がスペインのマヨルカへ移籍したものの、元日本代表の黒部光昭が加入。
古橋達弥は西澤明訓森島寛晃と絶妙なコンビネーションを発揮し、リーグ戦28試合で8ゴールをマーク。
セレッソはリーグ5位に躍進。古橋はセレッソからGK吉田宗弘とともにこの年のベストイレブンに選出された。

2006年も古橋の活躍は止まることはなく、中盤の汗かき役として存在感を発揮。
リーグ戦32試合で7ゴールを決める。しかしセレッソは開幕からの4節をすべて3失点以上で負けるなど不調に陥り、最終節で川崎に敗れ、年間17位となり5シーズンぶりのJ2降格が決定した。
この降格を受け、この年スペインから復帰した大久保嘉人はヴィッセル神戸へ、西澤明訓は清水エスパルスへ移籍するなど主力が続々と退団する中、古橋は残留を表明した。

2007年は自身初めてのJ2での戦いとなった。
この年は2トップの一角としてプレー。柿谷曜一朗や小松塁、香川真司らと攻撃を牽引。
古橋はリーグ戦18ゴールを決め得点ランキング5位に入り、チーム得点王となった。
この年、日本代表の岡田武史監督から初めて代表候補としてリストアップされている。
J2の選手が日本代表にリストアップされるのは稀なことであり、大きな注目を集めた。

2008年は出場機会が減少したこともありこの年限りで5年間在籍したセレッソを退団。

2009年はJ1のモンテディオ山形へ移籍した。
山形ではチャンスメーカーやフィニッシャーとしてチームを牽引。
長谷川悠との2トップで多くの得点を演出し、自身も7ゴールをマークした。

2010年は両膝を手術、2011年も肉離れの影響で出場機会が減少。
2年間でリーグ戦1ゴールに終わるとこの年限りで山形を退団した。

2012年からはJ2の湘南ベルマーレへ移籍。
キリノや馬場賢治との2トップで活躍し、リーグ戦35試合で5ゴールをマーク。
この年の湘南のJ1昇格に貢献した。

2013年は最年長選手としてチームを支えた。
怪我の影響もあり出場機会はリーグ戦7試合に留まったが、ベテランとして若手の見本となった。

2014年からはJFLのHondaFCへ復帰。
古巣復帰1年目にさっそくリーグ優勝に貢献すると、2016年からは2年連続で2桁得点をマーク。

2017年には大町将梧とのコンビで得点を量産し14ゴールを挙げ得点ランキング6位に入ると14年ぶりにJFLベストイレブンに選出された。
またこの年は7月15日2ndステージ第2節ホンダロックSC戦でハットトリックを記録した。
天皇杯でも活躍し2回戦のジュビロ磐田戦では、PK戦の末に敗れるも貴重な同点ゴールを決めた。

2018年からは再び背番号10を背負う。
2019年にはリーグ戦でJFL史上初となる4連覇の達成に貢献。

2020年はリーグ戦15試合に出場したがノーゴールに終わり、この年、40歳で現役を引退した。

古橋達弥の引退後と現在

古橋は引退後、2021年にJFL「HondaFC」のU-18コーチに就任。後進の育成に励んでいる。

高卒でJFLのチームにサラリーマン選手として入団し、そこからJリーグへの道を切り開いた古橋達弥。JFLで圧倒的な「違い」を見せていながら、このような逸材がJリーグデビューまで6年間もかかったことを思うと非常にもったいなく思ってしまう。

たとえばジュビロ磐田で活躍したイタリア人ストライカーのスキラッチは地元のアマチュアクラブで活躍後、セリエC、セリエB、セリエAとステップアップし、ついにはワールドカップ得点王に輝いた。

ワールドカップ得点王とまではいかないにしても、キャリア全盛期に元代表組の森島、西澤と絶妙なコンビネーションでJJ屈指の攻撃力を見せていたし、シャドーでもトップ下でもストライカーでも高い能力を発揮できる古橋のプレーを代表で見たかったと感じる方も多いのではないだろうか。

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