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崔龍洙(チェ・ヨンス)の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第488回】

強烈なシュートと打点の高いヘディングに絶対の自信をもつ2000年代初頭のアジアを代表するストライカー崔龍洙(チェ・ヨンス)。

2000年にKリーグで最優秀選手に輝くと、鳴り物入りでジェフ市原に加入した。

Jリーグでは2試合連続ハットトリックを記録するなど活躍。5シーズンの在籍でリーグ戦121試合で75ゴールを奪う。

韓国代表としても2大会連続でワールドカップに出場。国際Aマッチ69試合で27ゴールを決めている。

崔龍洙(チェ・ヨンス)のJリーグ入り前


チェヨンスは1973年に韓国の釜山広域市に生まれた。

小学校の時にサッカーを始め、当時から身体能力が高かったことから攻撃的なポジションでプレーを続けた。

釜山東来高校を卒業後、私立大学である延世大学校へ進学。
大学時代は年代別代表に選出され、世代屈指のストライカーとして活躍した。

大学卒業後、1994年にKリーグのLGチータース(後の安養LG 現FCソウル)へ入団。
入団1年目から主力として活躍し、リーグ戦29試合で9ゴールを決めた。

1996年はアトランタオリンピックの韓国代表として背番号10を背負い、チームのエースとして活躍。

1997年から2年間は徴兵制度のため、兵役服務中の選手が在籍するKリーグ2部の金泉尚武FCでプレーした。

1998年はフランスワールドカップに出場。
柳相鉄(ユ・サンチョル)盧廷潤(ノ・ジュンユン)洪明甫(ホン・ミョンボ)らとともに韓国を牽引。
予選では韓国代表最多得点を決め、エースとして大きな期待を受けた。
しかしチェヨンスはグループリーグのオランダ戦、ベルギー戦に出場したが得点は奪えず、1分2敗でグループリーグ敗退となった。

1999年、兵役終了後に安養LGへ復帰。
安養では絶対的エースとしてチームの顔となり、韓国FAカップで得点王を獲得。
2000年には安養LGのリーグ優勝に貢献し、チェヨンスはベストイレブンに選出され、この年のMVPに選出された。

2001年、Jリーグのジェフ市原からオファーを受け、初の海外移籍を決断する。

崔龍洙(チェ・ヨンス)のJリーグ入り後


2001年3月31日第3節柏レイソル戦で林丈統と2トップを組み、Jリーグ初出場。
この試合でさっそくJリーグ初ゴールを決めるとレギュラーを獲得し得点を量産。
難しい位置からでも積極的に得点を狙い、入団1年目にリーグ戦26試合で21ゴールを奪い、得点ランキング2位に入った。

2002年は開幕戦の京都サンガ戦で2ゴールを決め2-0の勝利に貢献。
チームの不動のストライカーとしてリーグ戦23試合で16ゴールをマーク。
同年、韓国代表として日韓ワールドカップへ出場。
李 天秀(イ・チョンス)、安 貞桓(アン・ジョンファン)といった若手がスタメンで出場し、チェヨンスは控えに回りアメリカ戦での途中出場のみに留まった。

2003年はワールドカップでの鬱憤を晴らすかのように、開幕戦のヴェルディ戦からゴールを奪う。
第5節マリノス戦、第6節京都パープルサンガ戦と2試合連続でハットトリックを決め、復調をアピールした。
この年はリーグ戦17ゴールを決め得点ランキング4位に入る。

2004年はJ2の京都パープルサンガへ移籍。
J2では別格の能力を見せ、リーグ戦20ゴールを決めるも京都は5位に終わり、1年でのJ1昇格は果たせなかった。

2005年はジュビロ磐田へ移籍。
開幕戦では中山雅史と2トップを組み勝利に貢献するも、その後は故障に悩まされ、リーグ戦15試合で1ゴールに終わるとこの年限りでJリーグから去ることになった。

2006年は古巣であるFCソウルへ復帰。
コーチ兼任選手としてプレーするも、怪我の影響によりこの年限りで現役を引退した。

崔龍洙(チェ・ヨンス)の引退後と現在

チェヨンスは引退後、2006年にFCソウルのコーチに就任。

その後はFCソウルの監督や中国の江蘇足球倶楽部(こうそそっきゅうくらぶ)の監督を務めた。

2021年からはKリーグの江原FCで監督を務めている。

Jリーグに加入したチェヨンスは「助っ人外国人」という肩書きが生ぬるく感じるほど凄まじかった。

Jリーグで思うような働きができずに去っていく海外選手が多い中、チェヨンスはひたすらに得点を重ねていった。

韓国代表のエースストライカーがアジアのライバルである日本の地でプレーするということは相当の覚悟が必要だったはずだ。

決めれば英雄、外せば戦犯という過酷な世界。

母国の大きな期待を一身に受けた伝説のストライカーはそれが自身の宿命であるかのように結果を出し続けた。

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