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土橋正樹の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第465回】

豊富な運動量と鋭い読みを生かした的確なボールコントロールで中盤の底で活躍したMF土橋正樹。

浦和入団後は、ルーキーながらオジェック監督によりレギュラーとして起用されると、シーズンを通してボランチとして活躍。

翌年の1996年には加茂周監督により早くも日本代表に抜擢され、キリンチャレンジカップ・ユーゴスラビア戦で代表デビューを飾った。

2000年にはJ1昇格をかけた最終節サガン鳥栖戦で値千金の劇的なVゴールを決め、J1昇格の立役者となった。

その後もボランチやサイドバックとして浦和一筋9年間プレーしリーグ戦184試合に出場した。

土橋正樹のJリーグ入り前


土橋は1972年に神奈川県横浜市に生まれた。

小学校の時に静岡県清水市に転居し本格的にサッカーを始める。
小学校6年生の時に清水市の選抜チームである清水FCに選出され、全日本少年サッカー大会に出場しベスト8入りに貢献した。

中学校入学後は宮城県に転居し仙台市立蒲町中学校に進学し、その後は東北学院高等学校へ進んだ。
同校の3学年上に加藤望(柏レイソル)がいる。

高校時代は選手権への出場は叶わなかったが、高校3年次にインターハイで3位に入る。
この活躍を受け、東北からただ一人ユース代表に選出され、アジアユース選手権に出場した。
実業団、大学生、高校生から選出される20名の代表の中で、土橋、大岩剛(清水商)、名波浩 (清水商)、上野良治(武南)ら9名が高校生として名を連ねた。
この大会ではグループリーグでバーレーンに3-1で勝利したものの、韓国に敗れ、シリアに引き分けたため、予選で敗退となっている。

高校卒業後、国士舘大学へ進学。
同学年に安藤正裕(清水エスパルス)、深川友貴(セレッソ大阪)、伊藤彰(川崎フロンターレ)がいる。
1学年下に大柴健二(浦和レッズ)、2学年下に佐藤尽(京都パープルサンガ)、今野章(ジュビロ磐田)らがいる。

大学時代は中盤のキープレーヤーとして活躍。
背番号10を背負い、国士舘の司令塔として存在感を示した。
総理大臣杯で準優勝、全日本大学選手権では3位に入る原動力となった。

大学卒業後、浦和レッズに入団する。

土橋正樹のJリーグ入り後

1995年3月18日開幕戦の横浜フリューゲルスとの試合でベンチ入りを果たすと、後半20分にチョウキジェと交代でJリーグデビューを飾った。
同年5月10日第15節ガンバ大阪戦では終了間際にJリーグ初ゴールをマーク。
第2節からボランチの位置に定着し、ルーキーながらリーグ戦51試合に出場する活躍を見せた。

この活躍を受け、1996年5月には加茂周監督により日本代表に招集される。
日本平で行われたキリンチャレンジカップ・日本対ユーゴスラビア戦でベンチ入りをすると後半途中に本田泰人と交代で出場し代表初キャップを飾る。
この試合は三浦知良がゴールを決め1-0で勝利している。
続くメキシコ代表戦にもベンチ入りするも出場機会はなく、このユーゴスラビア戦が土橋にとって最初で最後の代表戦となった。

1996年も開幕戦からフル出場を続ける。
後半戦は控えに回ることが多くなったが、ナビスコカップ、天皇杯も主力として存在感を見せた。

1997年も中盤の底で安定したプレーを見せ、リーグ戦31試合に出場。
ナビスコカップではセレッソ戦、サガン鳥栖戦、ジュビロ磐田戦でゴールを決め、得点能力の高さも見せる。

1998年以降は、ボランチだけでなく左サイドバックとしても出場するようになる。
しかし左サイドのスペシャリストである城定信次が起用されるようになるとベンチに回る機会が増えていった。

2000年、前年の降格により、J2でのシーズンとなる。
圧倒的な攻撃力で序盤から首位を独走するも、次第に勝ちきれない試合が続くようになりシーズン中盤には3位に転落。
最終節まで昇格を争う苦しい展開になるも、最終節サガン鳥栖戦では後半途中に大柴健二と交代でピッチに入ると、延長前半に劇的なVゴールを決め、悲願の昇格の立役者となった。

2001年は再びJ1で戦うことになる。
先発の機会は減ったが、優れたユーティリティ性が重宝され、後半の守備固めとして投入されるようになった。
この年はリーグ戦22試合に出場した。

2002年は3月に左ひざ内側側副靭帯損傷で離脱するなど苦しいシーズンとなり、リーグ戦3試合の出場に留まった。

2003年はベンチ入りする機会も激減し、公式戦出場が0に終わるとこの年をもって30歳で現役を引退することになった。

土橋正樹の引退後と現在

土橋は引退後、2004年から浦和のハートフルクラブのコーチに就任。

その後も、浦和一筋で、ジュニアユースやジュニアの指導者として活躍している。

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