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城定信次の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第464回】

左サイドバックや左ウイングバックを主戦場に浦和レッズで活躍したDF城定信次。

特に左ウイングバックで起用された際は、得意の攻撃参加から精度の高いクロスで得点を演出した。

市立船橋時代から年代別日本代表として活躍し、浦和入団後の1997年にはFIFAワールドユース日本代表の左サイドバックとして全試合にフル出場し、日本のベスト8入りに貢献した。

城定信次のJリーグ入り前


城定は1977年に東京都羽村市に生まれた。

小学校の時にサッカーを始め、地元の内野少年少女フットボールクラブに入団する。

印西町立原山中学校サッカー部で活躍後、名門の市立船橋高等学校へ進んだ。
同学年に鈴木正人(湘南ベルマーレ)、砂川誠(柏レイソル)、松森亮(ジュビロ磐田)、式田高義(ジェフユナイテッド市原)、1学年下に北嶋秀朗(柏レイソル)、佐藤陽彦(京都パープルサンガ)、1学年上に茶野隆行(ジェフユナイテッド市原)、鈴木和裕(ジェフユナイテッド市原)、森崎嘉之(ジェフユナイテッド市原)がいる。

高校時代は2年次で背番号14を与えられ、左サイドバックとして活躍。
選手権1回戦熊本農業戦ではゴールを決め、4-0での勝利に貢献した。
この年、エース森崎嘉之や1年生FW北嶋秀朗の活躍もあり優勝を果たした。

高校3年次には1対1での強さや攻撃力生かし、4バックのリベロとして活躍。
選手権千葉予選決勝の廣山望、福田健二らのいる習志野高校戦では貴重なゴールを決め3年連続での選手権出場に貢献。
連覇のかかった選手権では準々決勝で東福岡と対戦しPK戦の末に敗れている。
城定は大会優秀選手に選出。また同年の年代別日本代表にも選出された。

高校卒業後、浦和レッズに入団する。
同期入団に持山宜丈、大柴健二内舘秀樹、本間幸司、神野真郎、高橋義雄、伊賀光博、花山英二、佐藤太一、石井俊也、鈴木慎吾がいる。

城定信次のJリーグ入り後

入団1年目の1996年はリーグ戦2試合の出場に留まるも、U-19日本代表に選出されAFCアジアユースに出場し翌年のワールドユースの出場資格獲得に貢献した。

1997年には左サイドバックや左ウイングバンクとして大きく出場機会を伸ばし、リーグ戦18試合に出場した。
FIFAワールドユースでは背番号6を背負い、グループリーグ全試合にフル出場を果たし、日本の予選突破に貢献。
決勝トーナメントでは初戦のオーストラリアに1-0で勝利するも、続くガーナ戦では延長戦で敗れ、ベスト8で敗退となった。
城定は決勝トーナメントも全試合にフル出場を果たした。

1998年は左サイドバックや左ウイングバックとして活躍。
この年はリーグ戦22試合に出場しシーズンを通して起用された。

1999年はJリーグ初得点をマークしリーグ戦18試合に出場するも、同年に浦和はJ2に降格。
2000年はJ2での戦いとなったが5月14日第12節水戸ホーリーホック戦で負傷した影響でリーグ戦5試合の出場に留まった。

2001年はリーグ戦12試合に出場するも、翌年にハンス・オフトが監督に就任すると出場機会は激減し、シーズン途中にアルビレックス新潟へレンタル移籍を果たした。

しかしアルビレックスでは、加入初戦にに右ひざ前十字じん帯断裂という大怪我を負ってしまい、長期欠場を余儀なくされた。

2003年に浦和レッズに復帰するも、出場機会はなくこの年限りで浦和を退団する。

2004年は湘南ベルマーレへ移籍。

ベルマーレでは加入当初は左サイドバックとしてプレー。

2005年からはセンターバックとして活躍した。

2006年もリーグ戦19試合に出場し、ベテランとしてチームを牽引するもこの年をもってベルマーレを退団。
その後、合同トライアウトに参加し移籍先を探すもチームが決まらず、11年間の現役生活にピリオドを打った。

城定信次の引退後と現在

城定は引退後の2007年から指導者としてのキャリアをスタート。

湘南ベルマーレの普及部コーチとして1年間活動後、2008年から古巣の浦和レッズの下部組織のコーチとして活躍している。

また、息子の城定幹大も、市立船橋から産業能率大学を経て2023年にJ3福島ユナイテッドに加入して、父親と同じくJリーガーの道を歩み始めている。

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