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戸田光洋の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第421回】

驚異的な運動量を誇り、攻守のキーマンとしてFC東京、清水エスパルスでプレーした戸田光洋。

筑波大学時代は関東リーグ得点王&MVPという実績を残し、大学サッカー屈指のストライカーとしてFC東京に入団。

入団当初はストライカーとして伸び悩むも、左ハーフにコンバートされたことがきっかけでプレーの幅を広げ、出場の機会を増やした。

戸田光洋のJリーグ入り前


戸田は1977年に宮崎県都城市に生まれた。

物心ついた時にはサッカーを始めており、都城市立上長飯小学校1年生で地元の都城サッカースクールに入団。

都城市立妻ヶ丘中学校に進学後、サッカー部で活躍した。

高校教師の父親の影響を受け、教員になることを志し、神学校の都城泉ヶ丘高校に進学しサッカーを続ける。

都城泉ヶ丘高校では高校2年次から2年連続で宮崎県選抜に選出され、国体に出場した。

高校卒業後、筑波大学へ進学。同級生に井上敦史(コンサドーレ札幌)、西川周吾(水戸ホーリーホック)、冨田大介(水戸ホーリーホック)、谷池洋平(ヴィッセル神戸)、1学年上に萩村滋則(柏レイソル)、2学年下に平川忠亮(浦和レッズ)、羽生直剛(ジェフユナイテッド千葉)、石川竜也(鹿島アントラーズ)らがいる。

筑波大学では大学2年次に全日本大学サッカー選手権大会で3位に入り、3年次には準優勝に貢献した。

大学4年次にはストライカーとしての能力が開花し、全日本大学サッカー選手権大会決勝で国士館大学相手にゴールを決めるも、延長戦の末に敗れて準優勝となった。

関東リーグでは優勝し、大会MVP、得点王、ベストイレブンのタイトルを獲得した。

またこの年ユニバーシアード日本代表に選出され、山岸範宏早川知伸高木義成佐伯直哉らとともにパルマ大会に出場。
戸田は背番号11を背負い、黒部光昭とツートップを組むも1勝も出来ずグループリーグで敗退した。

2000年、筑波大学卒業後、FC東京に入団する。

戸田光洋のJリーグ入り後

関東リーグMVPという実績をもってFC東京に入団した戸田だったが、大熊清監督のもとでは途中出場が多く入団1年目は14試合で無得点の成績だった。

2001年4月14日第5節浦和レッズ戦では後半途中から出場し、呂比須ワグナーと2トップを組み、Jリーグ初ゴールを決めるも、この年も出場機会は多くなくリーグ戦12試合で2得点でシーズンを終えた。

2002年に原博実が監督に就任すると、持ち前の豊富な運動量を武器に左サイドハーフとして活躍。
得点へのこだわりを捨ててプレーの幅を広げたことで出場機会を大幅に増やした。
20027月14日第8節サンフレッチェ広島戦では、プロ初となるハットトリックを決め4-0での勝利に貢献した。

2003年にはチーム唯一の公式戦全40試合出場を記録。攻守のキーマンとして活躍しリーグ戦8ゴールを決めた。

2004年にはヤマザキナビスコカップでFC東京の初タイトル獲得に貢献。
決勝の浦和レッズ戦ではルーカスと2トップを組んで先発出場。
後半終了前に足がつり、馬場憂太と交代するまで前線からの激しいチェイスで奮闘した。

2006年のシーズン終了後、長谷川健太監督から誘われ清水エスパルスへ移籍。
攻撃のアクセントとして活躍が期待されたが、シーズン前の2007年、鹿児島キャンプ中にロアッソ熊本とのトレーニングマッチで上村健一と激しく交錯し、左腓骨を骨折という重傷を負った。

2007年8月のアルビレックス新潟戦で復帰を果たすも、コンディション不足は否めずリーグ戦4試合の出場に留まった。

2008年は主に後半途中からの出場でリーグ戦8試合に出場するが1得点に終わる。
前年に負った怪我の影響もあり、このシーズン限りで現役を引退した。

戸田光洋の引退後と現在

戸田は引退後、立正大学サッカー部のコーチに就任。

その後、2014年にS級ライセンスを取。
2015年からファジアーノ岡山のコーチを務め、2020年から川崎フロンターレのコーチを務めている。

 

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