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白井博幸の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第395回】

サッカーセンスが高く、精度の高いキックとクレバーな守備が持ち味のDF白井博幸。

高校時代からユース代表として選出され、アトランタオリンピック予選ではサウジアラビアのFWドサリにマンマークを決行し、エースを封じ込む活躍を見せた。

クラブでは清水エスパルスでキャリアをスタートさせ、ヴェルディ、セレッソ、ベルマーレなど6チームに在籍。

年齢を重ねると、DFだけでなくボランチとしてもプレーし、経験豊富なベテランとしてチームを牽引した。

白井博幸のJリーグ入り前


白井は1974年に静岡県富士市に生まれた。

小学校3年生の時にサッカーを始め、スポーツ少年団に入ってサッカーを学んだ。

東海大一中を卒業後、東海大一高(現:静岡翔洋高等学校)に進学。同級生に松原良香(ジュビロ磐田)、伊東輝悦(清水エスパルス)がいた。
1学年上に服部年宏(ジュビロ磐田)、小島卓(柏レイソル)がいる。

高校2年次から背番号4を背負い、強豪・東海大一のセンターバックを担った。
エース・伊東輝悦(背番号10)、点取り屋の松原良香(背番号11)、大黒柱の服部年宏(背番号5)とともにプレー。

選手権には出場できなかったが、インターハイでは静岡県2位で全国大会に進み、上野良治の武南や国見を下し準決勝に進出。小倉隆史をようする四日市中央工業戦では、白井が貴重なゴールを決め、2-1での勝利に貢献した。

決勝戦は斉藤俊秀(清水エスパルス)、田島宏晃(清水エスパルス)らをようする清水東との静岡決戦となり、延長戦までもつれこむ激戦となったが、清水東のエース田島宏晃にこぼれ球を決められ、準優勝となった。

白井は高校3年次にユース代表に選出。後にアトランタオリンピックに選出される川口能活、伊東輝悦、城彰ニ、服部年宏、松原良香らとしのぎを削った。

高校卒業後、いくつかのJクラブから誘いがあった中、地元の清水エスパルスに入団する。

白井博幸のJリーグ入り後

1993年、清水エスパルスに入団した白井だったが入団1年目はカップ戦1試合のみの出場に留まった。
1994年は開幕前に負傷し、出遅れるも9月に復帰しJリーグデビューを果たした。
11月16日の第21節ガンバ大阪戦ではクリーンシートでの勝利に貢献し、マンオブザマッチに選出された。

1995年は宮本征勝監督のもとでセンターバックとしてプレー。大榎克己森岡隆三とDFラインを形成しリーグ戦24試合に出場した。

1996年はアトランタオリンピックの日本代表に選出。前園真聖廣長優志、中田英寿、松田直樹らとともに活躍。
マイアミの奇跡と呼ばれるブラジル戦には、遠藤彰弘と交代で後半途中から出場し、勝利に貢献。白井は一躍知名度を上げた。

しかし清水エスパルスではオズワルド・アルディレス監督からの信頼を得られず、出場機会が激減しこの年限りで退団。

1997年はヴェルディ川崎、1998年はセレッソ大阪でレンタル移籍でプレーするがレギュラー獲得までは至らず、どちらも1年で退団。
レンタル元のエスパルスを退団し、一時はサッカーから離れるも、2000年に湘南ベルマーレに加入した。

ベルマーレではサイドバック、センターバック、ボランチとしてプレー。
すでにベテランの域に達していた白井は、負傷に悩みながらも、出場を続ける。
特に2002年、2003年の2年間はリーグ戦でそれぞれ30試合以上に出場しキャプテンとしてもチームをまとめた。

2006年にはベガルタ仙台へ移籍。
小針清允中田洋介らとともに守備を支え、2シーズンに渡ってプレーした。

2008年にはJFLのFC琉球に移籍。
元日本代表監督のフィリップ・トルシエが総監督に就任するなど注目を集めたが、白井は怪我のためにリーグ戦3試合の出場に留まり、この年限りで現役を引退した。

白井博幸の引退後と現在

白井は引退後、指導者に転身。
FC琉球でキャリアをスタートさせ、2018年からは名古屋経済大学サッカー部の監督を務めている。

白井はアトランタオリンピックでの活躍後、飛躍していく代表メンバーがいる中で、怪我も重なりクラブでなかなか出場機会に恵まれなかった。

清水エスパルスを満了退団となった際は、このまま引退かと思われたが、湘南ベルマーレにて見事に復活を果たした。
ベルマーレではオリンピック時代の勢いが全面に出たプレーよりも、経験を重ねた熟年のプレーで何度もチームを救った。
また、時折見せる、相手エースにガツガツ行くプレーはベテランになっても健在で、胸を熱くさせてくれた。

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