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廣長優志の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第342回】

サッカーセンスに長けており、本職のボランチはもちろん、ストッパーやストライカーまでこなすユーティリティプレーヤー。

若かりし頃は屈強な守備的選手として、U-23日本代表に選出されアトランタオリンピックに出場した。

頑丈なフィジカルも魅力だが、中盤の底から大きく展開できる正確なフィードが持ち味で、試合の局面を打開するロングパスを出すことも少なくなかった。

廣長はその類まれなるサッカーセンスで将来を期待されたが、ヴェルディではタレント集団の中でレギュラーを獲得できず、その後はチームを転々とすることになる。

「素質は代表クラス」と言われた廣長優志に迫る。

廣長優志のJリーグ入り前


廣長優志は1975年、大阪府に2人兄弟の長男として生まれた。

小学校1年生の時に地元の枚方FCでサッカーを始めた。当時は攻撃的なポジションを担い、ドリブルが得意な選手であった。

中学1年次には全国サロンフットボール大会優勝を経験しジュニアユース代表に選出された。

中学卒業後は、地元の大阪を離れ、神奈川の桐蔭学園高校へ進学。
桐蔭学園の同期には、森岡隆三、三上和良、橋本研一、1学年上には山田卓也、1学年下には盛田剛平、米山篤志らがいる。

桐蔭学園時代には守備的なポジションにコンバートされる。フィジカルを生かした献身的な守備力で、井原正巳の後継者と呼ばれ、主にDFとしてプレーした。

2年次には、森岡隆三、山田卓也らと高校屈指のDFラインを形成し、全日本ユースでベスト4へ進んだ。選手権では石塚啓次率いる京都府立山城高校にPK戦の末に敗れている。

3年次にはキャプテンとしてチームをまとめるも、選手権は予選で桐光学園に敗れ敗退している。

廣長は3年次にドイツ遠征を経験。ドイツでは高いサッカーセンスとフィジカルを評価され注目を集めた。

廣長は高校卒業後、ヴェルディ川崎へ入団する。

廣長優志のJリーグ入り後



高卒ルーキーの廣長は、入団1年目から出場機会を得る。日本代表主将の柱谷哲二加藤久石川康ペレイラなど経験豊富なレギュラー陣の中に割って入り、センターバックとしてプレー。NICOSシリーズ第2節の鹿島アントラーズ戦ではJリーグ初ゴールをマーク。この試合はPK戦までもつれこみ、廣長は5番目のキッカーを担い、PKを決めて勝利の立役者となった。

同年には西野朗監督率いるU-23日本代表に選出。廣長は、伊東輝悦(清水エスパルスなどでプレー)とドイスボランチを組み、主力としてプレーした。

アトランタオリンピック最終予選ではレギュラーとして活躍し、予選突破に大きく貢献。オリンピック代表にも順当に選出されるが、本番では出場機会が限られ、マイアミの軌跡はベンチで経験した。

オリンピック後、ヴェルディでは出場機会が減り、1998年にガンバ大阪へ1年間のレンタル移籍を経験。

ガンバでは第1節セレッソ大阪戦からスタメンで出場し、實好礼忠、バブンスキーらとDFラインを形成。試合によっては宮本恒靖がセンターバックに入り、廣長は稲本潤一と共にボランチでプレーした。

このシーズンはリーグ戦26試合に出場し3ゴールをマークしている。

1999年は東京の家を引き払い、ガンバ大阪で2年目のシーズンを迎えるも、セカンドステージからヴェルディに復帰。開幕から4戦連続先発出場を果たすも、その後は怪我で長期離脱を経験した。

2002年には当時J2の横浜FCへ移籍。

経験の浅いチームにおいて、貴重なベテランをとしてチームを牽引。キャリアハイとなるリーグ戦32試合に出場し5得点をマークするもチームは振るわず、リーグ12位に沈んだ。

2003年はJ1のセレッソ大阪へ移籍。

廣長は主にボランチ、センターバックとしてリーグ戦19試合に出場したが、翌年は怪我もありリーグ戦未出場に終わると、11年間のプロ生活に終止符を打った。

廣長優志の引退後と現在

廣長は引退後、指導者に転身。

ジュニアサッカースクール Escolinha De CRAQUE(EDC)に在籍し、子供たちの指導を行っている。

廣長もまた、将来を嘱望された選手であった。当時のフットボールファンからすると、廣長の攻撃的選手から守備的選手へのコンバートは成功であったのか、意見の割れるところだろう。

個人的には、ヴェルディ1年目のシーズンにルーキーとは思えないダイナミックなプレーを見せていた廣長優志が思い出される。フィジカルを生かしたDFももちろんだが、時折見せるドリブル突破からの攻撃参加は秀逸で胸を熱くさせてくれる選手であった。

 

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