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石塚啓次の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第67回】

1993年1月8日。

国立競技場で開催された第71回全国高等学校サッカー選手権大会の決勝の舞台。

国見高校対山城高校のスコアは2-0。

劣勢に立たされた山城高校は1枚の交代枠を切る。

大歓声に迎えられながら登場したその男は茶色に染めた長髪をなびかせて出てきた。

石塚啓次。

石塚がピッチに入る姿を確認するとチームメイトは安堵の表情を浮かべ、スタンドからは大きな声援があがった。

その風貌とダイナミックなプレースタイルから石塚は超高校級と呼ばれ「和製フリット」と称された。

入団したヴェルディ川崎では固定番号制になってからの初代10番を任されたほどの逸材。

石塚啓次には何かやってくれると思わせる雰囲気が漂っていた。

石塚啓次のプロ入り前


石塚は1974年に京都府に生まれた。

小学4年で京都紫光クラブに入団。

八幡市立男山第三中学時代は関西選抜に選出された。

高校は京都府立山城高校へ進学。

石塚啓次は背番号7をつけ、山城の絶対的エースとして君臨した。

石塚が高校3年生の時、山城高校は全国高校サッカー選手権に京都府代表として出場。

しかし石塚は大会前に痛めた怪我の影響で出場できなかった。

大黒柱が不在の中、チームは結束を固め、山城高校は決勝まで勝ち上がっていく。

決勝では長崎県代表の国見高校に2-0と差をつけられた後半、石塚は怪我をしているにもかかわらず試合に出場。

身長183センチ、73キロのスマートな体型に茶髪にピアス、アクセサリーをつけてピッチに入る石塚啓次の姿は全国放送されそのスケールの大きさが注目された。

試合は敗れ、山城高校は準優勝に終わったが石塚がボールを持つ度にスタンドは揺れ、滑らかなタッチから繰り広げられるドリブル突破や華麗なスルーパスに歓声があがった。

石塚啓次はそのルックスとプレースタイルから「和製フリット」「天才」「超高校級」とメディアから持ち上げられた。

進路に注目が集まる中、石塚は高校卒業後にヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)へと入団する。

石塚啓次のプロ入り後

石塚は加入2年目のの1994年に出場機会を掴み、ヴェルディのステージ優勝に貢献。

サンフレッチェ広島と戦った同年のチャンピオンシップには後半から武田修宏に代わって出場を果たすと、ヴェルディ川崎の優勝に貢献した。

石塚はその卓越した技術とポテンシャルの高さから活躍を期待されたものの、当時のヴェルディ川崎にはラモス瑠偉、ビスマルク北澤豪などが在籍しており出場機会は限られた。

1996年はブラジルへの短期留学を経験。

1997年には固定番号制が導入され、石塚はヴェルディ川崎の初代10番を背負うことになった。

しかし、出場機会は限られ、当時JFLのコンサドーレ札幌へレンタル移籍。

途中出場が多かったが、リーグ戦10試合に出場し2得点を挙げ、コンサドーレのJリーグ昇格に貢献した。

1998年に再びヴェルディへ復帰。

2000年はレギュラーとして固定され、シーズンを通して29試合に出場。6得点を挙げた。

張外龍監督の元で石塚はヴェルディの司令塔となり、活躍は長くは続かず2002年シーズン途中にヴェルディを退団後に海外クラブの入団テストを受けるも契約に至らなかった。

2003年に川崎フロンターレ、名古屋グランパスエイトに在籍し同年オフに引退をする。

石塚啓次、29歳での引退だった。

石塚啓次の引退後と現在

石塚は引退後、森敦彦(元横浜フリューゲルス、コンサドーレ札幌)とともにアパレルブランド「WACKO MARIA」をプロデュース。

現在は洋服業の傍ら、スペインのバルセロナへ移住し、うどん屋「宵宵祇園」を営んでいる。

Jリーグの天才プレーヤーといえば必ずといっていいほど名前の出る石塚啓次。

残念ながら、日本代表には縁がなくJリーグにおいても通算106試合出場、15得点という結果を残して29歳でピッチを去ることになった。

しかし石塚のただならぬ雰囲気と何かしてくれそうな予感を感じさせる印象は強烈に記憶に残っている。

その空気はやはり天性の才能をもっている限られたプレーヤーにしか出せないのだと思う。

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