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兵働昭弘の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第261回】

左足から繰り出させる正確なパスで、ゲームを動かすプレーメーカー兵働昭弘。

ボールの預けどころとなれる選手であり、精度の高い縦パスやスペースを突く正確なフィードで攻撃の起点となった。

攻撃的なポジションだけでなく、ボランチとしてもプレーするなどユーティリティなプレーヤーとして躍動。14年間の現役生活の中でのシーズン二桁試合出場は13年間と監督やチームメイトからの信頼も厚く、在籍した6チームすべてで中心選手として活躍した。

現役晩年には経験を生かしアンカーとしてもプレー。ビルドアップの起点として真価を発揮した。

兵働昭弘のJリーグ入り前


兵働昭弘は1982年に千葉県白井市に生まれた。

兄の影響で小学1年の時に七次台FCでサッカーを始める。右利きであったが生粋の左利きである兄の真似をして練習をしているうちに左足でのプレーの方が得意になっていたという。

小学、中学と印旛郡トレセンの常連メンバーだった為、名門校との試合にも出場。その縁もあり、いくつかの高校から誘いを受け八千代高校へ進学。

高校2年時インターハイで八千代高校史上初の全国制覇を成し遂げ、兵働個人としても国体の千葉県選抜に選出されるなど頭角を現す。

高校卒業後、筑波大学へ進学。同級生に鈴木達也、1つ下の学年に藤本淳吾がいた。

大学サッカー界で勢いのあった筑波大学で中核を担い、2003年ユニバーシアードでは優勝を果たした。いくつかのクラブから誘いを受けるが、兵藤はその中でも練習に参加した際チームが肌に合うと感じた清水エスパルスでプロの道を歩む決意をする。

兵働昭弘のJリーグ入り後

兵働昭弘は清水エスパルスに入団後、長谷川健太監督により左サイドバックにコンバートされたが与えられたポジションで努力を続けシーズン中頃からは本職のMFとして中盤でプレー。

第21節vs大宮アルディージャ戦ではスタメンとして出場し前半43分、プロ入り初ゴールを決めた。

2006年、2008年と2度、甲状腺機能障害で戦線離脱を余儀なくされたが復帰を果たす。

2009年にはキャプテンに就任。2010年シーズンは4-3-3へのシステム変更に伴い小野伸二と共にインサイドハーフを務めた。

同年の天皇杯準決勝vsガンバ大阪戦では1-0で迎えた前半29分、左サイドからのグラウンダークロスに対し、豪快な左足シュートを叩き込んで追加点を挙げ3-0での勝利に貢献。しかし試合終了間近に左足第5中足骨を骨折したため、国立の決勝はピッチに立つことが出来ずチームも敗戦を喫した。

2011年、柏レイソルに完全移籍。

年末の怪我の影響もあり出遅れたが、徐々に出場機会を増やすもその後失速。リーグ戦16試合出場1ゴール、スタメンは6試合のみと言う結果に終わる。

2012年、J2・ジェフユナイテッド千葉にレンタル移籍。リーグ戦では累積による出場停止1試合を除き、全ての試合に先発出場を果たした。2013年に完全移籍を果たす。

2015年大分トリニータに完全移籍をし主力としてリーグ戦33試合に出場するもチームは低迷しJ3に降格。兵働は同年12月に水戸ホーリーホックへ完全移籍を果たした。

水戸ではチーム最多となる42試合中41試合出場、7アシストを記録し、中盤の要として活躍を見せた。

2016年ヴァンフォーレ甲府へ完全移籍、J1リーグへ6年ぶりに復帰となった。

2018年、古巣である清水エスパルス復帰したが怪我の影響もありリーグ戦4試合出場0得点に留まり、同年11月引退を発表。

兵働はJ1リーグ戦195試合出場17得点、J2リーグ戦180試合出場15得点の成績を残した。

兵働昭弘の引退後と現在

兵働昭弘は引退後、2019年1月から清水エスパルスのクラブスタッフ(スカウト担当)に就任。6月からはトップチームのコーチに就任している。

2018年まで現役を続けたクラブのレジェンド的存在の兵働昭弘がコーチに入るという事はエスパルスの若手選手にとっても良い化学反応が生まれるのではないだろうか。

兵働昭弘は現役時代、2006年に甲状腺肝機能障害で全治3ヶ月と診断され、完治したと思われた矢先の2008年に再発。病に苦しめられた。日本代表に選出されてもおかしくないポテンシャルを秘めた兵働にとってこの病気との戦いは相当に苦しいものであったと感じる。

しかし彼は復活を果たした。高いテクニックと魅力的な左足で観客を魅了し続けた。

兵働昭弘がサッカーIQの高い選手であった事は説明するまでもない。だが14年間も現役生活を続けられたのは、それだけでなく困難にめげずに真摯にサッカーに向き合い続けたからではないかと私は思う。

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