小野伸二の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第517回】
柔らかいボールタッチ。
相手の動きを見ながら出す正確なパス。
そして、どんな場所にボールが来ても、まるで足に吸い付くように止めてしまうトラップ。
「天才」と呼ばれた日本人選手は数多くいる。
その中でも、小野伸二は特別な存在だった。
浦和レッズでプロデビューを果たすと、若くして日本代表に選出。
1998年には18歳でワールドカップに出場した。
1999年にはU-20日本代表のキャプテンとしてワールドユース準優勝。
その後オランダへ渡り、フェイエノールトではUEFAカップ優勝を経験した。
日本代表としても3度のワールドカップに出場。
長い現役生活の中では度重なる怪我にも苦しんだが、それでも最後までボールを大切にするプレースタイルを変えることはなかった。
2023年、44歳で現役を引退。
多くのサッカーファンを魅了した小野伸二。
その現役時代とプレースタイルに迫る。
小野伸二のJリーグ入り前
小野伸二は1979年9月27日、静岡県沼津市に生まれた。
兄と姉がサッカーをしていた影響もあり、幼い頃からボールを蹴るようになった。
小学生時代から高い技術を持っていた小野は、静岡県内でも注目される存在となっていく。
中学卒業後は清水商業高校へ進学。
当時の清水商業は、静岡県内でも屈指のサッカー強豪校だった。
小野は1年生の頃から年代別日本代表に選出されるなど、その才能を早くから評価されていた。
1995年にはU-17日本代表としてFIFA U-17世界選手権に出場。
この時の日本代表には、後に日本代表の中心選手となる稲本潤一、高原直泰、小笠原満男らもいた。
小野はまだ高校生になる前後の年代だったが、すでに世代を代表する選手として知られていた。
高校時代も清水商業の中心選手として活躍。
そして1997年。
高校3年生になると、浦和レッズへの加入が内定する。
浦和レッズには小野と同じ静岡県出身で、後に日本代表でもともにプレーすることになる選手たちがいた。
小野にとって、プロの世界への扉が開かれることになる。
小野伸二のJリーグ入り後
1998年。
高校卒業と同時に浦和レッズへ加入する。
当時の小野は18歳。
しかし、プロ入り直後からその才能を発揮した。
リーグ戦では開幕から出場機会を得ると、横浜フリューゲルス戦でJリーグ初ゴールを記録。
その年はリーグ戦27試合に出場して9得点を記録し、Jリーグ新人王とベストイレブンを受賞した。
さらに、この年には日本代表にも選出される。
18歳でフル代表デビューを果たすと、フランスワールドカップのメンバーにも選ばれた。
そして本大会のジャマイカ戦に途中出場。
18歳でワールドカップのピッチに立った。
プロ1年目からJリーグだけでなく、世界の舞台まで経験することになったのである。
1999年。
小野はさらに大きな舞台へ進んでいく。
ナイジェリアで開催されたFIFAワールドユース選手権にU-20日本代表のキャプテンとして出場。
このチームには、稲本潤一、小笠原満男、高原直泰、遠藤保仁、本山雅志、中田浩二らがいた。
後に「黄金世代」と呼ばれる選手たちである。
小野はグループリーグのイングランド戦でゴールを決め、準々決勝のメキシコ戦でも得点。
日本は準決勝でウルグアイを破り、決勝へ進出した。
決勝ではスペインに敗れたものの、日本はこの大会で準優勝。
日本の年代別代表として、それまで届かなかった世界大会の決勝まで進んだ。
小野自身も大会を通じてチームを牽引し、世界から注目される存在となった。
しかし、この年には大きな試練も待っていた。
1999年7月。
シドニーオリンピックのアジア地区予選、フィリピン戦で相手選手から後方からのタックルを受け、左膝を負傷。
靭帯を断裂する大怪我だった。
長期離脱を余儀なくされ、その後も膝の怪我とは長く付き合うことになる。
2000年には浦和レッズのキャプテンも務めた。
クラブがJ2へ降格する苦しい時期だったが、小野は残留を選択。
J2で戦いながらチームを引っ張り、浦和のJ1復帰に貢献した。
この頃の浦和には、小野とともに中盤を支える広瀬治がいた。
広瀬は小野より年上のベテランだったが、小野の才能を高く評価していた。
浦和での居残り練習では、広瀬からフリーキックの蹴り方などを教わったという。
そして広瀬が背負っていた背番号8は、小野へと受け継がれた。
2001年。
小野はオランダへ渡る。
移籍先はフェイエノールト。
当時のフェイエノールトはヨーロッパでも名門として知られるクラブだった。
日本からオランダへ渡った小野は、すぐにチームへ適応。
中盤でゲームを組み立てる役割を担った。
そして2001-02シーズン。
小野はフェイエノールトの中心選手としてUEFAカップを戦う。
決勝の相手はボルシア・ドルトムント。
小野は先発出場し、フェイエノールトは3-2で勝利。
小野は欧州カップ戦のタイトルを手にした。
日本人選手が欧州カップ戦を制するという大きな出来事だった。
フェイエノールトではヨン・ダール・トマソンやピエール・ファン・ホーイドンクらとプレー。
小野の正確なパスと高い技術は、オランダでも高く評価された。
2002年の日韓ワールドカップにも出場。
日本代表の決勝トーナメント進出に貢献した。
2004年のアテネオリンピックにも出場。
そして2005年までフェイエノールトでプレーした。
2006年には浦和レッズへ復帰。
Jリーグに戻った小野は、浦和の攻撃を支える中心選手となった。
この頃の浦和には、後に小野とともにチームを支えるポンテもいた。
ポンテは2列目からの飛び出しと正確なラストパスを武器とする選手。
小野との共演によって、浦和の中盤から前線にかけて高い技術を持つ選手が揃った。
浦和は2006年にJリーグ初優勝。
小野自身もクラブの歴史に残るタイトルを手にした。
その後、小野はドイツのボーフムへ移籍。
再びヨーロッパでプレーする。
しかし、怪我の影響もあり、以前のようにコンスタントに試合へ出場することは難しくなっていった。
2009年には清水エスパルスへ移籍。
生まれ育った静岡県のクラブでプレーすることになった。
清水では、後に中盤でコンビを組むことになる兵働昭弘らとプレー。
兵働は左足から繰り出す正確なパスを武器とするプレーメーカーで、小野とともに中盤を構成した。
その後、小野はオーストラリアへ渡り、ウェスタン・シドニー・ワンダラーズFCでプレー。
2014年からは北海道コンサドーレ札幌へ移籍する。
札幌でも、年齢を感じさせない技術でファンを魅了した。
2019年にはFC琉球へ移籍。
しかし2021年には再び札幌へ戻った。
そして2023年。
小野は44歳の誕生日である9月27日に、シーズン終了をもって現役を引退することを発表した。
26年間にわたるプロ生活だった。
小野伸二のプレースタイル
小野伸二のプレースタイルを語るうえで、最も印象に残るのがボールタッチだ。
どんなボールが来ても、足元へ柔らかく収める。
強いパスを受けても、ボールの勢いを殺して次のプレーへ移る。
相手が近くにいても、慌てることがない。
そのため、狭いスペースでもボールを失いにくかった。
そして、何よりも周囲を見ることができた。
ボールを受ける前に周囲を確認し、次のプレーを決めておく。
ボールが足元に入った瞬間には、すでに次のパスを出す準備ができている。
小野のプレーが速く見えるのは、ボールを持ってから判断するのではなく、ボールを受ける前に判断していたからだろう。
パスの種類も豊富だった。
短い距離で味方へつなぐパス。
相手DFの間を通す縦パス。
サイドチェンジ。
前線へ走り込む味方へのロングパス。
どのパスも、味方が次のプレーをしやすい場所へ出す。
ただ強く蹴るのではなく、受け手の状況まで考えてボールを届ける。
これが小野の大きな特徴だった。
また、シュートも上手かった。
利き足は右足だが、左足も高い技術を持っていた。
左右どちらでもボールを扱えるため、相手DFにとっては守りにくい選手だった。
セットプレーも武器だった。
フリーキックでは、ボールの軌道を変えるだけでなく、味方の動きを見ながらボールを入れる。
浦和時代には、先輩の広瀬治からフリーキックの蹴り方を学んだことも知られている。
そして、小野の特徴を語るうえで忘れてはいけないのが「トラップ」だ。
浮き球を柔らかく止める。
胸で受ける。
足元に落とす。
相手が寄せてきても、次のプレーへつなげられる場所にボールを置く。
一見すると簡単なプレーに見える。
しかし、相手のプレッシャーを受けながら正確にボールを止めるには、高い技術が必要になる。
小野はそれを自然にやっていた。
また、派手なドリブルで相手を何人も抜くタイプではなかった。
相手を抜く必要がある場面では技術を使う。
しかし、それ以上にパスで相手を動かす。
自分がボールを持つことで相手を引きつけ、空いた場所へ味方を走らせる。
そして、そこへ正確なボールを送る。
小野のプレーには、そうした「周囲の選手を生かす」という特徴があった。
そのため、中盤で小野がボールを持つと、味方の動きまで良く見えることがあった。
自分が目立つのではなく、チーム全体を動かす。
それが小野伸二のサッカーだった。
もちろん、現役生活は順風満帆だったわけではない。
左膝をはじめとする度重なる怪我によって、長期間ピッチを離れたこともあった。
しかし、怪我をしても小野はボールを蹴ることをやめなかった。
年齢を重ねるにつれて、スピードや運動量では若い頃に及ばなくなっても、技術や判断力は残った。
むしろ経験を重ねることで、ボールを持つ場所やタイミングを選ぶようになった。
44歳まで現役を続けられた理由の一つは、身体能力だけに頼らないプレースタイルだったからかもしれない。
小野伸二の引退後と現在
2023年シーズン終了後に現役を引退した小野。
26年間のプロ生活に終止符を打った。
日本、オランダ、ドイツ、オーストラリアのクラブでプレーし、日本代表としても3度のワールドカップに出場。
1999年にはU-20日本代表のキャプテンとしてワールドユース準優勝を経験し、フェイエノールトではUEFAカップ優勝を成し遂げた。
引退後もサッカーとの関係は続いている。
2024年1月には北海道コンサドーレ札幌のアンバサダーに就任。
現在もサッカーの魅力を伝える活動などを行っている。
また、子どもたちにサッカーの楽しさを伝える活動にも取り組んでいる。
小野伸二の現役生活を振り返ると、数字だけでは語れないものがある。
J1では206試合に出場して29得点。
J2では86試合に出場して9得点。
日本代表では56試合に出場して6得点。
そしてワールドカップには1998年、2002年、2006年と3大会連続で出場した。
1998年、18歳でワールドカップの舞台に立った。
1999年には世界大会の決勝まで進んだ。
2001年にはオランダへ渡り、フェイエノールトで欧州タイトルを獲得。
その後も怪我と戦いながら、日本で、そして海外でプレーを続けた。
小野伸二のサッカーを見ていると、ボールを蹴ることそのものを楽しんでいるように感じる瞬間があった。
強いパスを柔らかく止める。
難しいボールを簡単に処理する。
相手の逆を取る。
味方が次にプレーしやすい場所へボールを置く。
それらがあまりにも自然だった。
だからこそ「天才」と呼ばれたのだろう。
しかし、小野が特別だったのは、単に足元の技術が高かったからではない。
周囲を見て、味方を生かし、試合の流れを読む。
そのすべてを高いレベルで行うことができた。
日本代表では、稲本潤一、高原直泰、小笠原満男、遠藤保仁らとともに黄金世代を形成した。
それぞれ違う特徴を持った選手たちだったが、その中でも小野のボールタッチは独特だった。
ボールが足元に来れば、次に何が起こるのか分からない。
そんな期待を抱かせる選手だった。
26年間の現役生活を終えた今でも、小野伸二の名前を聞けば、あの柔らかなトラップを思い出す人は多いだろう。
華麗なパス。
正確なキック。
そして、誰にも真似できないようなボールタッチ。
日本サッカーが生んだ「天才」。
小野伸二。
そのプレーは、これからも多くのサッカーファンの記憶に残り続けるだろう。



