左足から放たれたボールが、壁の頭上を越えていく。
大きく曲がりながらゴールへ向かい、最後にはポストの内側を叩いてネットを揺らす。
そんなフリーキックを何度も見せてきた選手が、中村俊輔だった。

日本を代表するレフティー。
正確なキックだけではない。
ボールを持った時の視野の広さ、味方の動きを見る力、狭いスペースでの技術。
そして、試合の流れを変えることができる左足。

横浜マリノスで頭角を現すと、イタリアのレッジーナへ移籍。
その後はスコットランドのセルティックで大きな成功を収め、UEFAチャンピオンズリーグでも印象に残るゴールを決めた。

日本代表としても98試合に出場。
2000年と2013年にはJリーグMVPに選ばれている。
44歳まで現役を続けた中村俊輔。
その現役時代とプレースタイルに迫る。

中村俊輔のプロ入り前

中村俊輔は1978年6月24日、神奈川県に生まれた。
サッカーを始めたのは小学生の頃。
その後、日産FCジュニアユースへ進む。
ここでは後にプロの世界で活躍する選手たちと一緒にプレーした。

1学年下には、後にベルマーレ平塚や横浜F・マリノスなどでプレーする高田保則もいた。
高田は中村について、日産FCジュニアユース時代から周囲の選手とは違うレベルの技術を持っていたことを振り返っている。

中村はその後、桐光学園高校へ進学。
高校時代から左足のキックと技術の高さは全国的に知られるようになった。
桐光学園では背番号10を背負い、攻撃の中心としてチームを引っ張った。

高校時代には全国高校サッカー選手権にも出場。
1996年度の大会では、後に日本代表でもプレーする柳沢敦らとともに注目を集めた。
接着して高校卒業後の1997年。
中村は横浜マリノスへ入団する。

プロ入り当初から左足の技術は高く評価されていたが、いきなりチームの中心だったわけではない。
少しずつ出場機会を増やしながら、プロの世界で自分の居場所を作っていった。

中村俊輔のプロ入り後

1997年4月16日。
三ツ沢球技場で行われたガンバ大阪戦でJリーグデビューを果たす。
プロ1年目はリーグ戦27試合に出場して5得点。
新人王にも選ばれた。

翌1998年には33試合に出場して9得点。
若手選手ながら、横浜マリノスの攻撃を担う存在になっていった。
1999年には背番号10を背負うようになる。

そして2000年。
22歳の中村はJリーグ最優秀選手賞を受賞した。
この頃の横浜マリノスには、奥大介遠藤彰弘上野良治らがいた。
中盤には技術の高い選手が揃っていた。

奥は運動量と独特のリズムを持ち、遠藤は攻守両面でチームを支え、上野は正確なパスでゲームを組み立てる。
その中で中村は、左足を生かして攻撃を作る役割を担った。

特に奥とのコンビネーションは、横浜マリノスの攻撃を語るうえで欠かせない。
奥が中盤のスペースを埋め、中村が前を向いてボールを持つ。
中村に相手のマークが集中すれば、今度は奥が前へ出ていく。
役割の違う二人が組み合わさることで、中盤に厚みが生まれていた。

2000年には日本代表としてアジアカップにも出場。
日本の優勝に貢献し、大会最優秀選手にも選ばれた。
2001年にはJリーグカップ優勝も経験。
国内で実績を積み重ねた中村が、次に目を向けたのが海外だった。

2002年。
イタリア・セリエAのレッジーナへ移籍する。
日本ではすでにJリーグMVPを獲得していた中村だったが、ヨーロッパではゼロからの挑戦だった。
レッジーナでは背番号10を任され、プレースキッカーとしてもチームから大きな期待を受けた。
セリエAという激しいリーグで3年間プレーした経験は、その後の中村にとって大きな財産となった。

2005年にはスコットランドのセルティックへ移籍。
ここで中村の名前は、日本だけでなくヨーロッパでも広く知られるようになる。
セルティックではリーグ優勝を経験し、UEFAチャンピオンズリーグでも活躍。
2006年にはマンチェスター・ユナイテッド戦で直接フリーキックを決めた。

翌2007年にも同じマンチェスター・ユナイテッド戦で直接FKを決めている。
世界的なクラブを相手に、2シーズン続けてフリーキックを決めた。
この活躍によって、中村俊輔の左足は世界にも知られるようになった。

2009年にはスペインのエスパニョールへ移籍。
しかし、スペインでは思うように出場機会を得ることができなかった。

そして2010年。
中村は8年ぶりに日本へ戻り、横浜F・マリノスへ復帰する。
復帰後も中村はチームの中心としてプレーした。

2013年にはリーグ戦33試合に出場して10得点。
35歳で2度目のJリーグ最優秀選手賞を受賞した。
22歳で初めてMVPを獲得してから13年。
年齢を重ねても、中村の左足とゲームを読む力は健在だった。

この時期には、若い選手たちともプレーしている。
横浜F・マリノスには、後に日本代表でも活躍する齋藤学らも在籍していた。
ベテランの中村と若い選手が同じピッチに立つことで、中村自身も新しい役割を担うようになっていった。

2017年にはジュビロ磐田へ移籍。
磐田には中村がかつて日本代表でともにプレーした名波浩が監督として在籍していた。

外して2019年には横浜FCへ移籍。
40歳を超えてからも現役を続けた。
横浜FCでは若い選手たちとプレーしながら、経験を生かしてチームを支えた。

2022年。
44歳となった中村は、シーズン終了をもって現役を引退することを発表した。
26年間にわたるプロ生活だった。

中村俊輔のプレースタイル

中村俊輔のプレースタイルを語るうえで、やはり最初に出てくるのはフリーキックだろう。
左足から放たれるボールは、単純に強く蹴るだけではない。
壁の位置、ゴールキーパーの立ち位置、ゴールまでの距離。
それらを見ながら、ボールにさまざまな回転をかける。
直接ゴールを狙うこともあれば、味方が合わせやすいボールを入れることもできた。
セルティック時代には、この左足から何度もゴールが生まれた。

しかし、中村は「フリーキックが上手い選手」だけではない。
むしろ、試合中のプレーを見ると、キック以外の部分にも大きな特徴があった。

まず、視野の広さだ。
ボールを受ける前から周囲を確認する。
相手がどこにいるのか、味方がどこへ動いているのか、そして、次に何をするべきなのか。
それを考えたうえでボールを受ける。
だから、トラップしてからパスを出すまでが速い。
相手に囲まれていても、ワンタッチ、ツータッチでボールを動かしていく。

左足から繰り出されるパスも大きな武器だった。
短いパスだけではない。
サイドチェンジのような長いボール、前線へ送り込むスルーパス、相手の最終ラインの裏を狙うボール。
状況に応じて蹴り分けることができた。

また、シュートも上手かった。
特にペナルティエリアの外から狙うミドルシュート。
ボールを受けてから一瞬で振り抜くため、相手DFが寄せる前にシュートを打つことができた。

そして中村には試合の流れを読む力もあった。
自分が前へ出るべきなのか、一度ボールを下げるべきなのか、サイドへ展開するべきなのか。
味方の動きを見ながら判断する。
そのため、中村のプレーは派手なフリーキックだけではない。
ボールを持っていない時間にも、次のプレーを考えている。
それが中村の大きな特徴だった。

一方で、フィジカルで相手を圧倒するタイプではなかった。
身体をぶつけてボールを奪うより、技術と判断で相手をかわす。
相手との距離を取り、ボールを失わない位置へ動く。
そのため、中村のプレーには独特のリズムがあった。

左足から出てくるパス、一瞬のトラップ、相手の逆を取る動き、そして、ゴール前でのフリーキック。
こうした一つひとつの技術を組み合わせて、試合の中で違いを作る。
それが中村俊輔という選手だった。

中村俊輔の引退後と現在

2022年に現役を引退した中村。
しかし、サッカーから離れることはなかった。
2023年からは横浜FCのトップチームコーチに就任。
選手としてではなく、指導者としてサッカーと向き合うようになった。

そして2026年。
中村はSAMURAI BLUEのナショナルコーチングスタッフに就任した。
現役時代に日本代表として98試合に出場した中村が、今度は指導者として日本代表を支える立場になったのである。

中村俊輔の現役生活は26年間。
横浜マリノスでプロになり、レッジーナでイタリアに挑戦。
セルティックでは欧州の舞台で大きな結果を残し、エスパニョールを経て日本へ帰国。
横浜F・マリノス、ジュビロ磐田、横浜FCでもプレーを続けた。

日本代表では98試合に出場し24得点。
Jリーグでは2000年と2013年の2度、最優秀選手賞を受賞した。
そして44歳でスパイクを脱いだ。

中村俊輔を語る時、やはり最後に残るのは左足だ。
壁の上を越えて落ちてくるフリーキック、ゴールの隅へ突き刺さるシュート、相手の逆を突くパス。
中村がボールを置いた瞬間、スタジアムの空気が少し変わる。
「何か起こるかもしれない」
そう思わせる選手だった。

日本サッカーを代表するレフティー。
そして、世界の舞台で日本人選手の存在を印象づけたフリーキッカー。
中村俊輔。
その左足から生まれた数々のゴールとパスは、これからも日本サッカーの記憶として残り続けるだろう。

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