188cmという長身を生かした空中戦の強さはもちろん、足元の技術にも優れた万能型のストライカー佐藤慶明。
1994年に浦和レッズに加入すると、エース福田正博を怪我で欠いた穴を見事に埋め、得点を量産した。
その活躍を受け、ファルカン監督により日本代表に選出。キリンカップのオーストラリア戦でデビューを果たした。
佐藤慶明のJリーグ入り前
天王寺小学校でサッカーを始め、天王寺中学校サッカー部で活躍。
サッカーをするために、附属高校には進学せずに強豪の北陽高等学校へ進学。2学年下に山口敏弘(ガンバ大阪)がいる。
高校3年次に大阪府代表として選手権に出場。1回戦で優勝候補の帝京高校と対戦。このカードは大会屈指の好カードと言われ、注目を集めた。
北陽は山口敏弘ら1年生がFWとして先発し、3年生がDFラインや中盤を作る形成で望んだため佐藤に出場機会はなかった。帝京は超高校級といわれた礒貝洋光を筆頭に、森山泰行、本田泰人、飯島寿久、池田伸康らが先発に名を連ねた。
試合は帝京が2点を先制し、北陽は意地の1発を返すも、1-2で敗れている。
佐藤は高校卒業後、同志社大学へ進学。同学年に中西哲生(名古屋グランパス)がいる。
大学時代は総理大臣杯ベスト8進出などを経験する。
1992年、大学卒業後に地元のガンバ大阪に入団する。
佐藤慶明のJリーグ入り後
ガンバ大阪に入団したさとうだったが、入団2年間は全く出場の機会はなかった。
ガンバには、同じ北陽出身の山口敏弘、日本代表の永島昭浩、期待の若手である松波正信、ベテランの松山吉之などFWが充実していたため、ベンチ入りも出来なかった。
しかし、サテライトリーグでは圧倒的な実力を見せ、19試合で17ゴールを決める活躍を見せた。
1994年、出場機会を求めて浦和レッズに移籍。
1994年4月9日サントリーシリーズ第8節ジュビロ磐田戦で背番号11を背負い、Jリーグデビューを果たした。
その後も、エース福田正博や、ポジショニングに優れたFW水内猛、スピードのある岡野雅行など、タイプの違う選手と2トップを組んだ。
第12節清水エスパルス戦で、ヘディングでJリーグ初ゴールを決めると、その後は得点を量産した。
福田正博がスポーツヘルニアのために長期離脱したが、その穴を埋める活躍を見せた。
この活躍を受け、1994年5月にはファルカン監督により、日本代表に選出。怪我で辞退した福田正博に代わっての招集だった。
日本はアルゼンチン代表と試合をする予定だったが、来日直前にマラドーナの入国問題で来日が取り消されたため、急遽、オーストラリア代表と戦うことになった。
1994年5月22日、広島ビッグアーチで行われた日本対オーストラリア戦で日本代表として先発デビューし三浦知良と2トップを組んだ。試合は浅野哲也のミドルシュートで先制するも、後半に追いつかれ1-1で引き分けた。
佐藤は後半、小倉隆史と交代。これが佐藤にとって最初で最後の代表選となった。
1994年シーズンは、ルンメニゲに次ぐ、リーグ戦9ゴールを挙げる大活躍を見せたがチームは低迷し、2年連続で年間順位最下位となった。
1995年は、この年から就任したホルガー・オジェック監督の構想から外れる。
また、福田が怪我から復帰したことや、清水エスパルスからFWトニーニョを獲得したこともあって、佐藤はシーズン途中にJFLの京都パープルサンガへ移籍。
京都では森下申一や望月聡とともにチームを支え、京都のJリーグ昇格に貢献。
1996年も京都でプレー。
5月18日の第15節名古屋グランパスエイト戦で背番号10を背負い、ゴールを決めるもこのシーズンは4試合の出場で1ゴールに終わり、京都を退団と同時に現役を引退。
佐藤が27歳での引退だった。
佐藤慶明の引退後と現在
佐藤は現役引退後、大阪産業大学のサッカー部監督に就任。
同大学の准教授として活動する一方でDAZNでの開設者としても活躍している。
Jリーグ開幕当時の長身FWといえば、とにかく空中戦に強く、前線でのポストプレーでの起点となれるターゲットマンとしての役割が主だった。
しかし、佐藤は両足のキックの精度も高く、足元で勝負が出来るタイプの大型FWであった。
浦和では、得意のヘディングで合わせるゴールもあったが、岡野の突破からのグラウンダーのクロスにスライディングで合わせたり、こぼれ球を足で押し込むゴールもあったり、ドリブルで自ら切り込んで決めたりと、シュートパターンの多い選手であった。
今でこそサイズのある万能型のFWは珍しくないが、当時では珍しいタイプのFWであった。