「隊長」というニックネームで親しまれ、ジェフ千葉で活躍した坂本將貴。
守備的なポジションならどこでもハイレベルで対応できるユーティリティプレーヤーであり、オシムが提唱した「走るサッカー」において、なくてはならない選手であった。
リーダーシップがあり、小、中、高、大、千葉、新潟と所属したすべてのチームでキャプテンを経験。
精神的支柱としてもチームを支え、ジェフでは2005年と2006年のナビスコカップ連覇に大きく貢献した。
坂本將貴のJリーグ入り前
小学校入学後、9歳の時にサッカーを始め、大門少年団に入団する。
さいたま市立美園中学校進学後、サッカー部に入部。
中学時代はトップ下を務めることが多く、チームのキャプテンとして活躍し、県選抜に選出された。
坂本の強靭なメンタルは中学時代に鍛えられたと後に語っている。
中学卒業後、武南高校などの強豪校から誘いがあったが、地元の埼玉県立浦和東高等学校へ進学。
高校入学後、すぐに試合出場の機会を得て、後に中心選手となっていく。
高校3年次にはキャプテンとして背番号10を背負い、アタッカーとして攻撃陣を牽引。
全国高校サッカー選手権では、埼玉県大会決勝東農大三高校を2-0で下し出場を果たすも。1回戦で国見高校に1-3で敗れている。
また同年、埼玉県選抜に選出され、国体に出場した。
高校卒業後、日本体育大学に進学。
大学1年次からレギュラーとして活躍し、大学2年次に総理大臣杯でベスト4入りを果たした。
4年次にはキャプテンとしてチームを牽引した。
2000年、大学卒業時にジェフ市原とFC東京からオファーが届いたが、当時のジェフには代表選手が多く在籍していたため、近くで学びたいという思いでジェフに入団する。
坂本將貴のJリーグ入り後
ジェフに入団1年目は出場機会が得られなかったが、守備的なポジションにコンバートされてから出場機会を掴む。
入団2年目の2001年6月16日の第11節ガンバ大阪戦で、前半15分に茶野隆行と交代で初出場を果たすと、その8分後にJリーグ初ゴールを決める。
その試合は3-3のまま延長戦に突入したが、延長後半に劇的なゴールを決めて勝利に貢献するという派手なデビューを飾った。
この年はリーグ戦19試合で3ゴールを決め、山瀬功治(コンサドーレ札幌)、大久保嘉人(セレッソ大阪)とともに新人賞を受賞した。
2002年はリーグ戦フル出場を果たし、翌年にオシム監督が就任しても中心人物として活躍し、2003年もフル出場を果たした。
2004年にセレッソ大阪戦を1試合出場停止で欠場したのみで、2005年と2006年もフル出場を果たす。また2005年と2006年はナビスコカップ連覇に貢献した。
坂本はキャプテン、選手会長としても活躍しピッチ内外でチームの顔となった。
2007年、アルビレックス新潟、FC東京、名古屋グランパスエイトからオファーを受けた坂本は、3年契約でアルビレックス新潟へ移籍。
移籍金は推定1億1000万円と報道された。
新潟では左サイドバックとして活躍。開幕戦の大分トリニータ戦でアシストを記録すると、第5節FC東京戦では新潟での初ゴールをマークした。
この年もリーグ戦全試合出場を果たし、新潟のリーグ戦6位躍進の立役者となった。
2008年、新潟での更なる飛躍が期待され、新潟サポーターから大きな信頼を得ていた坂本だったが、突如ジェフ千葉へ移籍を表明する。
1年での出戻りとなるこの移籍は大きな波紋を呼んだ。
坂本はジェフに戻ってからもユーティリティプレーヤーとして様々なポジションを担うが、2009年にジェフはJ2に降格した。
その後もジェフに残留してチームを支えるも、2012年シーズン終了後、13年間に渡るプロサッカー選手生活にピリオドを打った。
坂本將貴の引退後と現在
坂本は引退後、2013年にジェフ千葉のアカデミー普及コーチに就任。
その後、ジェフ千葉U-15の監督を経て2020年にトップチームのコーチに就任。
2023年からはジェフ千葉のヘッドコーチを務めている。
J1では通算275試合に出場して13得点、J2では通算52試合に出場した坂本將貴。
強烈なキャプテンシーで苦しいときにもチームを支え、サポーターに愛された選手だった。