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中谷勇介の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第436回】

左のスペシャリスト中谷勇介。

快速を生かしたオーバーラップでスペースを突く積極的な攻撃参加が魅力の選手。

その能力は高校在学時から注目され、ユース代表として世界大会に出場した。

度重なる怪我に苦しんだが、出場した試合では安定したプレーでチームを支えた。

攻撃型サイドバックながら守備の意識も高い。

中谷勇介のJリーグ入り前


中谷は1978年に京都府宇治市に生まれた。

槇島小学校入学後、8歳の時にサッカーを始め、槇島サッカースポーツ少年団に入団した。

宇治市立槇島中学校時代は京都府の陸上大会に出場し、1500メートル走で2位に入った経験を持つ。

卒業後、名門の奈良育英高等学校へ進学。
同学年に東幸一(サガン鳥栖)、矢部次郎(名古屋グランパス)、2学年上に楢崎正剛(横浜フリューゲルス)、1学年下に中村祥朗(鹿島アントラーズ)がいる。

中谷は高校1年次からレギュラーとして活躍。
選手権では順当に勝ち進むも、準決勝で森崎嘉之鈴木和裕、城定信次、式田高義、北嶋秀朗らをようする市立船橋に0-3で敗れている。

高校3年次にも選手権に出場するも、3回戦で前橋育英にPK戦の末に敗れベスト8進出を逃した。

また、中谷は高校1年次からユース代表に選出されている。
U-16日本代表として背番号6を背負い、アジア大会を優勝。翌年にはFIFAU-17世界選手権エクアドル大会に出場。
高原直泰、小野伸二、稲本潤一、新井場徹らそうそうたるメンバーと共に挑むも、グループリーグで敗退している。

高校卒業後、名古屋グランパスエイトに入団する。同期入団に山崎光太郎、滝澤邦彦、三原廣樹、古賀正紘がいる。

中谷勇介のJリーグ入り後

入団1年目はサテライトでの調整となり出場機会はなかったが、2年目に出場機会を掴む。
1998年第2節ジェフ市原戦で初めてベンチ入りをすると、1998年4月29日第9節鹿島アントラーズ戦で左サイドバックとして初出場を果たした。
豊富な運動量と積極的な攻撃参加で活躍し、レギュラーに定着。リーグ戦26試合に出場した。
またこの年はU-21日本代表としてアジア大会に出場するも、グループリーグで敗退している。

1999年もシーズン序盤はレギュラーであったが、小川誠一が復帰すると出場機会が減少。
10月には浦和レッズへレンタル移籍をするが、怪我の為に出場は1試合に留まった。

2000年には川崎フロンターレへ完全移籍。
2000年8月12日第9節サンフレッチェ広島戦では延長前半に劇的ゴールを挙げ、勝利に貢献。
このゴールが中谷のJリーグ初ゴールとなった。

2001年には名古屋グランパスに復帰。
しかし度重なる怪我により、シーズンを通して満足に活躍できる年は少なかった。

2003年からは背番号6を背負う。
怪我から復帰すると、ネルシーニョ監督の元で不動の左サイドバックとして活躍。2004年にはキャリアハイとなるリーグ戦25試合に出場した。

2006年にはJ2柏レイソルへ移籍。
しかし怪我のために出場機会に恵まれず、2007年9月に京都サンガへレンタル移籍を果たした。

2007年はシーズン途中の加入ながら左サイドハーフとしてレギュラーに定着。
J1J2入れ替え戦に進むと、2戦ともに出場し京都のJ1昇格に貢献した。

しかし2010年に出場機会が減少し退団。

なかなか所属先が決まらなかったが。2011年7月にJ2東京ヴェルディへ移籍。
途中加入ながらすぐにチームにフィットすると左アウトサイドのレギュラーとして活躍。
ヴェルディには2年間の在籍で36試合に出場した。

2013年にはタイ2部のコーンケンFCへ移籍。
中谷にとって初めての海外移籍となるも、ベテランとしてチームを支えた。

2015年シーズン終了後、現役を引退した。

中谷勇介の引退後と現在

中谷は引退後、名古屋グランパスのスクールコーチに就任。

その後、強化部に入りスカウトとして活動している。

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