2000年代中盤のガンバ大阪黄金期を支えたGK松代直樹。
的確なコーチングと安定したキャッチングが持ち味だが、ここ一番で見せるビッグセーブで何度もスタジアムを沸かせた。
高校時代からGKに転向し、ガンバ大阪入団後は6年目に正GKの座を掴んだ苦労人としても知られる。
現役最後の試合は天皇杯決勝の名古屋グランパス戦。安定した守備を見せ、ガンバの天皇杯2連覇の立役者となった。
松代直樹のJリーグ入り前
小学校入学後にサッカーを始め、地元の富雄南FCに入団した。
富雄南FCの2年先輩に柳本啓成がいる。
奈良市立富雄南中学校に進学後、鉄道研究部に入部。
奈良FCに入りサッカーを続けた。この頃はGKではなく、フィールドプレーヤーであった。
中学校卒業後、上牧高校へ進学し本格的にゴールキーパーに転向しサッカーに打ち込む。
高校時代は選手権にへの出場はなく、全国大会とは無縁だった。
高校卒業後、天理大学へ進学。同学年に水越潤(アルビレックス新潟)がいる。
大学時代は正GKとして活躍し、総理大臣杯や全日本大学選手権に出場した。
大会での上位入賞は叶わなかったが、松代は大学選抜に選出され、コスタリカやスロベニア遠征に参加した。
また大学4年次には奈良県代表として天皇杯に初めて出場するも初戦でコスモ四日市に0-1で敗れている。
大学卒業後、ガンバ大阪に入団。
同期入団に吉成浩司(筑波大)、斎藤大輔(中央大)、都築龍太(国見高)、林晃平(滝川第二高)、古河裕次(芦屋高)、田村忠義(草津東高)がいる。
松代直樹のJリーグ入り後
ガンバ大阪入団後は、正GKとして岡中勇人が君臨しており、サブには同期入団の都築龍太がベンチに入ることが多く、松代はベンチ外の日々が続いた。
入団4年目の2000年、コンディション不良で出遅れていた岡中勇人に代わり、同年3月11日のリーグ開幕戦ヴェルディ川崎との試合で初出場を果たす。
その後第3節までゴールマウスを守るも、岡中勇人の復帰や都築龍太の台頭で再びベンチに回ることになり、このシーズンは3試合の出場に留まった。
2001年は都築の控えに回ったが、2002年8月3日第12節ジュビロ磐田戦で4-5の5失点で敗北すると、翌第13節東京ヴェルディ戦で都築龍太に代わって起用され3-0での勝利に貢献。
その後は西野朗監督の信頼を勝ち取り、レギュラーとして出場するようになった。
2003年は自身初となるリーグ戦全試合に出場。優勝争いには絡めなかったが、この年のJOMOオールスターサッカーに選出される。
同じ奈良県出身のGK楢崎正剛とともにJ-WESTのゴールマウスを守るなど、松代にとって飛躍のシーズンとなった。
2004年も不動の守護神としてガンバのゴール前に立ち塞がる。
この年から優勝争いに絡むようになり、リーグ戦では3位に入り、天皇杯ではベスト4に進出した。
2005年も正GKとして出場を続けるも、ナビスコカップのセレッソ大阪戦で左手を骨折する重傷を負うと、コンサドーレから同年に加入した藤ヶ谷陽介が起用されるようになった。
シーズン終盤にはベンチ入りを果たすも、同年の関西のチームとして初となるリーグ優勝を果たした瞬間はベンチで見守ることになった。
2006年は藤ヶ谷陽介と熾烈なポジション争いを繰り広げる。
優勝争いは最後までもつれ、2位のガンバが1位の浦和レッズと最終節で戦うことになったがこの試合に松代は先発。
逆転優勝をするには3点差以上での勝利が絶対条件という苦しい状況の中、前半からビッグセーブを見せる。
前半21分にマグノ・アウベスのゴールでガンバが先制するも、その後は浦和の怒涛の攻めにあい、2-3で敗れ、浦和の初優勝を見届ける形となった。
2007年以降も藤ヶ谷陽介との熾烈なポジション争いは続いた。
2008年のACLでは3試合に出場しアジア制覇に貢献。同年からキャプテンに就任する。
2009年はリーグ戦13試合に出場し優勝争いを演じ、起用された試合では神懸ったセーブを見せ3位に入る原動力となった。
また同年の天皇杯決勝の名古屋グランパス戦では久しぶりに先発出場を果たし、4-1での勝利に貢献。
ガンバの天皇杯2連覇を達成し、現役を引退することになった。
松代直樹の引退後と現在
松代は引退後、2010年よりガンバ大阪下部組織のGKコーチとしてセカンドキャリアをスタート。
2018年からはトップチームのGKコーチとして活躍した。
2022年からは大阪学院大学体育会サッカー部のGKコーチに就任。
監督の實好礼忠、コーチの石櫃洋祐らとチームを支えている。