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石櫃洋祐の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第447回】

GKとDFの間に鋭く落ちる弾道クロスで攻撃を牽引した右サイドバック石櫃洋祐。

大学3年次に元日本代表監督の加茂周によってサイドバックにコンバートされると、頭角を現しヴィッセル神戸へ入団。

プロ3年目の2008年には岡田武史監督により日本代表に選出された。

名古屋グランパスでは出場機会に恵まれなかったが、京都サンガでは7年に及び活躍。ベテランの年齢になっても最後まで走り続けるその姿は鉄人と呼ばれた。

ムードメーカーとしてもチームに欠かせない存在であり、多くのサポーターに愛された。

石櫃洋祐のJリーグ入り前


石櫃は1983年に大阪府摂津市に生まれた。

6歳の時にサッカーを始め、摂津市立三宅柳田小学校に入学後、摂津サッカースクールに入団。

摂津市立第三中学校に入学後、サッカー部に所属。
中学卒業後、サッカーを辞めようと考えたが、担任の勧めで高校でもサッカーを続けることを決める。

大阪学院大学高校に進学後もFWで活躍。
高校時代に選手権の出場はなく、目立った成績を収めることは出来なかった。

高校卒業後、大阪学院大学へ進学。
大学3年次に元日本代表監督の加茂周が総監督に就任。
それまでFWでプレーしていた石櫃だったが、加茂周が初めて練習に訪れた日に右サイドバックにコンバートされ頭角を現す。

加茂周が就任した年の関西学生リーグでは9位という成績だったが、翌年には5位に順位が上がる。
大学4年次の関西学生選手権では3位に入る健闘を見せた。

大学卒業後、ヴィッセル神戸へ入団する。

石櫃洋祐のJリーグ入り後

2006年、入団1年目は出場機会がなかったが、2年目に神戸がJ1に昇格すると松田浩監督のもとで出場機会を得る。

2007年4月14日第6節ジェフユナイテッド千葉戦でベンチ入りを果たすと、後半23分に大久保嘉人と交代でJリーグ初出場を果たした。
その後は右サイドバックに定着し、同じく元FWの左サイドバック茂木弘人と攻撃的な両翼として神戸のサイドを担った。

2008年12月に、日本代表の岡田武史監督によりAFCアジアカップ予選のメンバーに選出され合宿に参加。
しかし右サイトバックには内田篤人や左右どちらも出来る駒野友一がいたため、出場機会はなかった。

2009年にカイオ・ジュニオールが神戸の監督に就任してもその信頼は揺るがず、リーグ戦30試合に出場。

2010年まで不動のレギュラーであったが、2011年はコンディションが上がらず出場機会が減少。この年をもって神戸を退団する。

2012年はストイコビッチ監督が率いる名古屋グランパスへ移籍。
元日本代表の田中隼磨や、左サイドの阿部翔平との熾烈なポジション争いを演じることになったが、出場機会は少なく2年間の在籍でリーグ戦11試合の出場に留まった。

2014年はJ2京都サンガへ移籍。
石櫃はここで再び輝きを取り戻し、右サイドバックの不動のレギュラーとして活躍。
特に同年に京都に加入した大黒将志とのホットラインは脅威であり、多くのゴールをアシストした。大黒は同年、26得点を挙げ、J2得点王に輝いた。

2016年には左ひざ外側半月板の手術をするが、僅か2か月で復帰し、レギュラーに返り咲く。
京都は年間順位5位となり昇格プレーオフに進むも、4位のセレッソ大阪に敗れ、惜しくも昇格を逃した。

2017年、2018年は2年連続でリーグ戦40試合に出場。
35歳という年齢ながら90分間尽きることのないスタミナで上下に走りチームに貢献した。

2019年9月、右膝内側半月板を損傷し残りのシーズンは欠場することになった。

2020年は實好礼忠監督のもと、開幕戦からベンチ入りを果たし、復帰を果たす。
途中出場が多いながらも、リーグ戦17試合に出場したがこの年をもって現役を引退した。

石櫃洋祐の引退後と現在

石櫃は現役引退後、2021年に母校である大阪学院大学のコーチに就任し、指導者としてのキャリアをスタートさせた。

現役時代、攻撃的な右サイドバックとしてチームを支える一方、ムードメーカーとしても欠かせない存在だった石櫃洋祐。

引退会見では大学時代に加茂周との運命的な出会いにより、それまで考えもしなかったプロへの道が開けたと語った。

今度は指導者として、ダイヤの原石を発掘することができるだろうか。

かつての石櫃自身がそうであったように。

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