身長171センチながら、ボディコンタクトの強さを武器に1対1で本領を発揮するセンターバック真中幹夫。
実弟の眞中靖夫も鹿島アントラーズやセレッソ大阪で活躍したJリーガーであり、兄弟Jリーガーとしても知られる。
茨城大学を卒業後、テスト入団で1992年にジェフ市原へ入団。カバーリングを持ち味にDfラインを支えた。
1999年から在籍した横浜FCではJリーグ昇格の原動力となり、JFLベストイレブンに選出された。
真中幹夫のJリーグ入り前
真中幹夫は1969年に茨城県に坂東市に生まれた。
1歳下に後に鹿島アントラーズやセレッソ大阪で活躍する眞中靖夫がいる。
岩井第一小学校に入学後にサッカーを始め、岩井FCJrに所属した。
岩井中学校卒業後、茨城県立境高等学校へ進学。
2学年下に野口裕司(京都パープルサンガ)、4学年下に竹田宏治(鹿島アントラーズ)がいる。
高校時代は木澤正徳のいる古河第一高等学校が3年連続で選手権に出場したため、選手権への出場は叶わなかった。
高校卒業後、茨城大学へ進学。
元々は教師志望であったが、弟の眞中靖夫が高校卒業後に住友金属(後の鹿島アントラーズ)に入団したことがきっかけとなり、ジェフユナイテッド市原のテストを受験。
1992年、大学卒業後、ジェフ市原へ入団。
同期入団に中西永輔や武藤真一がいる。
真中幹夫のJリーグ入り後
真中は入団2年目の1993年11月6日NICOSシリーズ第10節横浜フリューゲルス戦でJリーグ初出場を果たす。
この試合では五十嵐和也、影山雅永とともに3バックを形成したが、試合はエドゥーと前田治にゴールを決められ1-2で敗れている。
同年はリーグ戦6試合に出場した。
1994年は序盤は怪我で出遅れるも復帰後はセンターバックだけでなく、MFやサイドバックとしても出場。
復帰後はレギュラーに定着しリーグ戦27試合に出場した。
1995年はセルビア人DFのバシリエビッチやルーキーの茶野隆行、鈴木和裕とともにDFラインを形成。
副キャプテンに就任し、中堅選手としてチームを支える。
シーズンを通して起用され、リーグ戦48試合に出場した。
1996年は開幕戦からDFリーダーとして出場を続ける。
リーグ戦20試合、ナビスコカップには全試合出場し存在感を発揮するも、この年をもってジェフ市原を退団した。
1997年はジャパンフットボールリーグ(JFL)のブランメル仙台(現ベガルタ仙台)に移籍。
阪倉裕二、吉田暢、越後和男、リトバルスキー、須藤秀之といった元ジェフ組や水内猛、松永成立といったJリーグ経験者とともにプレーした。
1998年はJFLの大宮アルディージャでプレーし、翌年にはJFLの横浜FCへ移籍した。
横浜FCではこれまでの経験を生かし、DFの主力として活躍。
入団2年目の2000年にはリーグ戦20勝2分無敗という圧倒的な強さを見せ、リーグ優勝とJ2昇格の原動力となった。
真中は、横浜FCから水原大樹、 高田昌明、有馬賢二、横山博敏、後藤義一とともにこの年のリーグベストイレブンに選出された。
2001年からはセンターバックやボランチとして出場を続ける。
2001年3月17日第2節ベガルタ仙台戦では試合終了間際に値千金の同点ゴールを決める。
このゴールは真中にとってJリーグ初ゴールとなり、試合も延長戦の末に小野信義が決め、2-1で勝利している。
2003年はリトバルスキー監督のもとで、リーグ戦28試合に出場。
2004年は右足前十字靭帯を断裂した影響で出場機会が減少。
リーグ戦終盤に復帰するも4試合の出場に留まり、この年限りで現役を引退した。
真中幹夫の引退後と現在
真中は引退後、指導者に転身。
横浜FCやファジアーノ岡山、AC長野パルセイロ、アルビレックス新潟、愛媛FCなどのコーチを務めた。
2022シーズンからは東京ヴェルディのスカウトディレクターに就任している。