当時の日本ユース界で最強を誇った広島ユースにおいて、数十年に1人の天才と呼ばれ将来を嘱望された逸材、前田俊介。
独創的な発想から生まれる自由で才能溢れるプレーは多くのサポーターを魅了した。
ワンタッチで相手の裏をつく独特なリズムのドリブルと、繊細な左足でのボールタッチはまさに芸術の域。
2003年のJリーグユース選手権大会で広島ユースを優勝に導き、大会得点王に輝くと瞬く間に全国から注目されるようになる。
プロ入り後の前田俊介の活躍は誰もが大きな期待をしたが、プロでは苦難の日々が続いた。
前田俊介のJリーグ入り前
5歳の時にサッカーを始め、地元のサッカークラブである桜井FCに入団する。
小学校5年生の時に高田FCへ移り、ここで後の前田の代名詞となったドリブルや個人技を磨くことになる。
高田FC時代から能力は突出しており、クラブユース選手権ではチームの中心として活躍。
この活躍を受け、中学時代は多くの高校やユースから誘いを受けるが、サンフレッチェユースの個性を生かした創造性あふれるサッカーに共感し、入団を決意する。
サンフレッチェユースでは高校1年次から活躍。背番号19を背負い、主にトップ下でプレー。
Jユースカップ決勝トーナメントの京都パープルサンガユース戦では途中出場から決勝ゴールを決める。
同年、U-16日本代表に選出され、U-17アジア選手権に出場した。
広島ユース監督で親分という愛称で親しまれた森山佳郎監督のもとで前田は成長を続ける。
同期入団の森脇良太は前田について「次元が違う。僕らの世代は前田俊介か家長昭博かと言われるくらい二人は特別な存在だった」と後年語っている。
高校2年次には左腕を骨折する不運に見舞われるも、Jユースカップグループリーグ終盤で復帰。
6試合連続ゴールを挙げるなど9得点を決め、チームを優勝に導くと同時に大会得点王になる活躍を見せた。
その中でも準決勝のセレッソ大阪U-18との試合で見せたノートラップでのランニングボレーシュートは芸術性が高く、テレビでも紹介された。
高校3年次には背番号10を背負い、絶対的エースとして活躍。
クラブユース選手権では槙野智章、柏木陽介、森脇良太、平繁龍一らとともに躍動し決勝のジュビロ磐田ユース戦ではハットトリックを記録し4-1での勝利に貢献、自身は大会得点王に選出された。
高円宮杯でも大会MVPと得点王に輝き、チームを優勝に導いた。
この年、前田はトップチームの練習に帯同。リーグ戦11試合に出場し1ゴールを決めた。
高校卒業後、トップチーム昇格を果たす。
同期入団は森脇良太、高柳一誠、佐藤昭大、桒田慎一朗などがいる。
前田俊介のJリーグ入り後
2005年4月2日第3節名古屋グランパス戦でベンチ入りを果たすと、終了間際に大木勉と交代でトップ昇格後のデビューを飾った。
4月13日第5節東京ヴェルディ戦で初ゴールを決めると、その後も出場時間は短いながらもコンスタントに出場機会を得る。
この年はリーグ戦26試合に出場し5ゴールをマークした。
また、同年のFIFAワールドユース選手権に出場。
平山相太、カレン ロバート、森本貴幸、本田圭佑、家長昭博など強力な攻撃陣の中で得点源として奮闘。
グループリーグのオーストラリア戦ではDFの裏に抜け出し、利き足ではない右足で執念のゴールを決め、日本を決勝トーナメント進出へ導いた。
飛躍が期待されたプロ2年目のシーズンとなる2006年は、ウェズレイ、佐藤寿人というJ屈指の2トップの活躍に影を潜めることになる。
出場機会は少なくリーグ戦8試合で1ゴールの成績に留まった。
2007年も出場機会を得られず、同年6月にはJ2大分トリニータへレンタル移籍。
第31節大宮アルディージャ戦では終了間際に決勝ゴールを決め、チームを降格の危機から救った。
2008年も大分でプレー。
ウェズレイ、森島康仁、高松大樹、清武弘嗣、金崎夢生などがおり出場機会は少なかったが、途中出場から流れを変える役割を担いリーグ戦15試合に出場。
2009年は完全移籍で大分に移籍するが、戦術にフィットすることが出来ずベンチ外の日々が続き、チームもJ2へ降格するなど試練の年となった。
2010年8月には出場機会を求めてFC東京へレンタル移籍。
リーグ戦6試合に出場するもノーゴールに終わった。
2011年、大分へ復帰。背水の陣で挑んだシーズンとなったが、FWではなく1.5列目のポジションで存在感を発揮。リーグ戦30試合に出場し8ゴールをマークした。
2012年はコンサドーレ札幌へ移籍。
加入初年度にJ2降格を味わうも、その後も札幌に残留し主力として活躍。これまで苦手とされてきた前線からの守備や運動量の面でも改善が見られ、献身的なプレーでチームを牽引した。しかし2015年は左足関節軟骨損傷により長期欠場。この年をもって4シーズン在籍した札幌を離れることになった。
2016年はJ3ガイナーレ鳥取へ移籍。
柱谷哲二監督のもとでスーパーサブとして活躍。
Jリーグで実績のあるフェルナンジーニョや元フロンターレの黒津勝とともに鳥取の得点源として2シーズン活躍した。
2018年には元日本代表の高原直泰が選手兼代表を務める九州リーグの沖縄SVへ移籍。
加入初年度にアシスト王を獲得し、ベストイレブンに選出されるなど格の違いを見せつける。
2020年はリーグ戦2試合、天皇杯1試合に出場。この年限りで現役を引退した。
前田俊介の引退後と現在
前田俊介は2021年より沖縄SVのトップチームコーチに就任。
2023年からは古巣であるディアブロッサ高田FCに選手兼トップチームコーチ兼育成部門テクニカルコーチとして就任している。
前田俊介のベストコンディションでのプレーは今見てもまったく色褪せることはない。
前田俊介の全盛期を知る人は、いつか世界を舞台に躍動する彼を夢見続けた。
眩しすぎるほどの輝きを放ったユース時代からすると、前田俊介のプロ生活は苦難の連続だった。現役時代に所属した当時の選手名鑑や、前田の紹介ページには「天才肌のレフティ」「天才ドリブラー」などの言葉が並ぶ。圧倒的なセンスを持った前田は、同じポジションのライバルや相手チームのDFと戦うだけでなく、「天才」という称号とも戦い続けることになった。結果が出ないと「運動量が足りない」「守備の意識が低い」と、周囲は手のひらを返したように前田の欠点をつくようになる。そして前田はいつしか「早熟の天才」「未完の大器」と呼ばれるようになっていく。
現実的なプレーが求められる現代サッカーにおいて、リスクの高いプレーというのは好まれない。いくら飛びぬけたセンスがあろうと、まずはミスをしないことが優先される。天才であろうとなんであろうと11人のうちの1人であるのには変わりはないのだから、他の選手と同じように守備や運動量が求められる。当然のことだとも思う。故に前田俊介がプロ選手であり続けるにはプレースタイルの変化は必然だったのだろう。現役晩年に所属したコンサドーレでは、前線から激しくボールを追う前田の姿が印象に残っている。結果的にこのプレースタイルの変化が前田のプロ選手としての寿命を延ばしたのは言うまでもないだろう。
だが、我々はファンタジスタが好きだ。
スタジアムが静寂に包まれ、その後に怒号のような大歓声が沸くその瞬間がたまらなく好きだ。前田俊介のようなファンタジスタが生まれる瞬間を心のどこかで待ち望んでいる。矛盾を感じながらも、システマチックな現代サッカーをぶち壊す、時代を逆行するような危険なスーパースターの誕生を待ち望んでいる。
我々は前田俊介を諦めないのではない。
前田俊介を諦められないのだ。