豊富な得点パターンを持つ万能型のストライカー工藤壮人。ゴール前での嗅覚に優れ、DFとの駆け引きから抜け出し確実にゴールネットを揺らすハンター。
2009年、柏レイソルトップに昇格後、入団2年目にチャンスを掴むと2桁得点をマーク。
年代別日本代表を経て2013年には得点ランキング5位に入る19ゴールを決めると日本代表に選出され、代表初試合で初ゴールをマークした。
柏レイソルではJリーグ史上初となる昇格初年度での優勝に貢献し、ヤマザキナビスコカップでは決勝戦でゴールを決め、優勝を果たすとともに大会MVPに選出された。
海外移籍を経てサンフレッチェ広島、J2レノファ山口、オーストラリアのブリスベン・ロアーFC、J3テゲバジャーロ宮崎でプレー。
再起を図った宮崎での練習中、水頭症により逝去。
さすらいのストライカーの突然の死に多くのファンが悲しみにくれた。
工藤壮人のJリーグ入り前
兄の影響で3歳からサッカーを始め、足立区立保木間小学校4年生の時に柏レイソルU-12に入団した。
同期に指宿洋史、畑田真輝がいる。
足立区立六月中学校進学後、柏レイソルU-15に昇格。
同期に酒井宏樹、仙石廉、武富孝介、指宿洋史、畑田真輝らがいる。
柏レイソルU-15では当初出場機会に恵まれなかったが、自らの課題を補う努力を続け、次第に出場機会を増やしていった。
中学1年次にはナイキプレミアカップジャパンで優勝を経験。
中学3年次にはクラブユース選手権でベスト16入りを果たす。この年U-15日本代表に選出されている。
日本体育大学柏高等学校に進学後、柏レイソルU-18に昇格。
高校1年次からレギュラーとして活躍。同年には千葉県選抜に酒井宏樹、山崎正登らと選出され全国優勝を果たした。
高校2年次には第15回Jリーグユース選手権大会で準優勝。
高校3年次には第32回日本クラブユースサッカー選手権で決勝に進出し、FC東京U-18と対戦するも三田啓貴にゴールを決められ準優勝となった。
工藤はU-16、17日本代表に選出され、多くの国際大会を経験した。
工藤は高校卒業後、柏レイソルのトップチームに昇格。
同期入団に酒井宏樹、比嘉厚平、山崎正登、武富孝介らがいる。
工藤はU-10世代から9年間一貫して柏レイソルの下部組織に所属。
9年間一貫して下部組織に所属した選手のトップチーム昇格は柏レイソル史上2人目となった。
工藤壮人のJリーグ入り後
工藤は入団1年目の2009年10月7日、第29節FC東京戦で山﨑正登と交代でJリーグ初出場を果たす。
同年はリーグ戦3試合に出場したが、チームは勝ちきれない試合が続き、2006年以来2度目のJ2降格となった。
入団2年目の2010年。
ネルシーニョ監督のもと、1年でのJ1復帰が絶対目標となったチームは、確実に昇格を果たすために充実した選手補強を行う。
工藤と同じポジションにはフランサ、北嶋秀朗、澤昌克、林陵平、レアンドロ、田中順也といったリーグ屈指の選手が名を連ねた。
工藤は低位置取りが難しいと思われていたが、キャンプから居残り練習を続け、第3節アビスパ福岡戦で後半途中に北嶋秀朗と交代でピッチに入ると相手のミスを突いて決勝点をマーク。
この活躍を皮切りに出場機会を掴み、リーグ戦27試合で10ゴールをマークした。
この活躍を受け、U-21日本代表に招集され広州アジア競技大会で金メダルを獲得。
柏レイソルのJ2優勝とJ1昇格の瞬間には代表遠征のために立ち会えなかったが、工藤の貢献度は非常に高かった。
2011年にはリーグ戦25試合で7ゴールをマーク。
Jリーグ史上初となる昇格初年度でのJ1優勝に貢献すると、翌年にはロンドンオリンピック出場を目指すU-23日本代表に選出され、アジア予選に出場した。
2012年からは柏レイソルのエースとして君臨し、リーグ13得点を記録。
第19節セレッソ大阪戦ではハットトリックを達成。この年のチーム得点王に輝いた。
天皇杯でも5試合で2ゴールを決め、優勝を果たす。
2013年からは背番号9を背負い柏レイソルの得点源として活躍。
リーグ19ゴールをマークし得点ランキング5位に入る。
多彩なゴールパターンを持ち、確実にネットを揺らすエース工藤壮人の活躍はザッケローニ日本代表監督の目に止まり、5月にフル代表に招集される。
2013年7月21日、東アジアカップの中国代表戦で代表デビューを果たすと、後半15分に代表初ゴールを記録した。
同年9月6日のキリンチャレンジカップ、グアテマラ代表戦では後半途中に岡崎慎司と交代でピッチに入ると、左のシャドーでプレーし自身代表2点目をマークした。
翌年のワールドカップへの出場も期待されたが、招集はされず工藤にとってこれが最後の代表戦となった。
同年のヤマザキナビスコカップでは決勝の浦和レッズ戦で値千金のゴールを決め、優勝に貢献。工藤は大会MVPを受賞した。
2014年は1トップではなく、サイドアタッカーや2シャドーの一角としてのプレーが増える。
チームでの役割が変化したこともあり、得点数は7ゴールに減少。リーグ戦全試合に出場したがシーズン終盤には先発を外れることもあった。
2015年は柏レイソルU-18時代の恩師である吉田達磨が監督に就任したこともあり、FWでの出場機会が増える。
2年連続となるリーグ戦全試合出場10ゴールをマークし、チーム得点王となるなど健在ぶりをアピールした。
同年12月、アメリカのメジャーリーグサッカー、バンクーバー・ホワイトキャップスからオファーを受け完全移籍。
メジャーリーグには元スペイン代表ダビド・ビジャやコートジボワール代表のディディエ・ドログバ、ブラジル代表のカカ、元イングランド代表のジェラードなどが加入しており大きな注目を集めていた。
工藤はこの移籍により、10歳から所属した柏レイソルを離れることになった。
ホワイトキャップスでは入団後しばらくゴールを決められずにいたが、第10節ポートランド・ティンバーズ戦でリーグ戦初ゴールをマーク。
しかしその4日後の試合で相手GKと正面から激突し、顎の骨折とほお骨の亀裂骨折をするという重傷を負った。
この怪我の影響もあり、リーグ戦17試合2ゴールの成績に留まると同年でホワイトキャップスを退団した。
2017年はサンフレッチェ広島へ移籍。
同年は森保一監督、2018年は城福浩監督のもとでプレー。
佐藤寿人の後任として期待を受けるも、サンフレッチェでの2年間は先発出場は多くなく、2年間でリーグ戦30試合で4ゴールの成績に留まった。
2019年はJ2レノファ山口FCへレンタル移籍。
山口では途中出場が多いながらもリーグ戦27試合に出場。4ゴールを記録。
その後はヨーロッパのクラブのセレクションを受けるも入団には至らず、母校で練習を続けながらオファーを待つ日々が続いた。
2020年12月、オーストラリアへ渡り、1部リーグのブリスベン・ロアーFCへ入団。
入団から4ケ月後、セントラルコースト・マリナーズ戦でクロスに合わせてリーグ戦初ゴールを奪うが、出場機会に恵まれずリーグ戦14試合で1ゴールに留まると2021年8月にチームを退団。
2022年1月、J3のテゲバジャーロ宮崎へ移籍。
背番号9を背負い、第2節から連続得点をマークするなど復調をアピール。
宮崎ではFWとしてプレーし、前線からの献身的な守備でも貢献した。
しかし同年10月2日の練習中に体調不良を訴え、翌日10月3日に検査の結果、水頭症の診断を受けた。
10月11日に手術を受けたが、容態が悪化し10月21日14時50分、入院先の病院で32歳の若さで死去。
工藤壮人について
工藤の32歳での突然の死は多くのサッカーファンに衝撃を与えた。
日本代表でともに戦った吉田麻也は「少しでもご家族のサポートが出来るように考え、取り組んでいきたいと思う」と語り、10歳から所属した柏レイソルは「15年間広報をさせてもらってきて一番辛い仕事です」と発信。
工藤を日本代表に抜擢したザッケローニは「工藤の献身的なプレーが目に焼き付いている」とコメントした。
その他にも野々村チェアマンを始め、多くの選手やクラブがコメントを発表し、工藤の若すぎる死を偲んだ。
工藤の経歴を見ると、輝かしいサッカー人生を歩んでいるように見えるが、決して順風満帆だったわけではない。柏レイソル時代も居残り練習を繰り返してウィークポイントを改善したことでチャンスを掴み、ブレイクへとつなげた。
謙虚で腰が低く、練習の虫。
これは工藤壮人を見てきた多くの人間が彼にもったイメージであり、そして実際の彼の姿だ。
柏レイソルがJ1昇格を果たした2011年。
Jリーグ選手名鑑に掲載された工藤壮人の将来の夢には一言こう書かれている。
「世界のトップでプレーする」
僕らは工藤壮人というゴールハンターがいたことを忘れない。