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河原和寿の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第476回】

前線を精力的に走り回り、裏への飛び出しから得点を狙うシャドーストライカー河原和寿。

高校時代から年代別日本代表として活躍し、調子乗り世代の点取り屋としてFIFA U-20ワールドカップへ出場した。

7シーズン在籍した愛媛FCではエースとしてチームを牽引。
クラブ史上最多のJリーグ44得点を挙げ、3度のチーム得点王に輝くなど、得点能力の高さをあらためて証明した。

河原和寿のJリーグ入り前


河原は1987年に埼玉県行田市に生まれた。

物心がついたときに家族の影響でサッカーを始め、小学校4年生の時に地元の少年団に入団。
小学校の時は関東大会に出場した経験を持つ。
当時のポジションはDFで、埼玉県選抜に選出されるも、選抜ではFWでプレーした。

行田市立西中学校ではサッカー部で活躍し、埼玉県立大宮東高校へ進学。
同学年に藤本雄基(ザスパ草津)、2学年上に加藤順大(浦和レッズ)がいる。

選手権への出場は叶わなかったがインターハイには高校2年次から2年連続で出場。
2年次のインターハイでは初戦の作陽高校戦で2得点を決め、勝利に貢献した。

また高校時代はU-16日本代表に選出され、城福浩監督のもとでオーストラリア遠征などに参加。
同学年のハーフナーマイクらとしのぎを削った。

その後も順当にU-17日本代表、U-18日本代表に選出。

この活躍を受け高校卒業後の2005年にアルビレックス新潟へ入団する。
同期入団に諏訪雄大、藤井大輔、田中秀哉、吉澤正悟がいる。

河原和寿のJリーグ入り後

入団1年目の2005年はリーグ戦の出場はなかったものの。2年目の2006年4月8日第7節ヴァンフォーレ甲府戦でベンチ入りを果たすと、後半42分に田中亜土夢と交代でJリーグ初出場。
その僅か2分後にJリーグ初ゴールを決めるというセンセーショナルなデビューを飾った。
同年10月に開催されたAFCユース選手権に出場するU-19日本代表に選出される。
グループリーグ初戦の北朝鮮戦では先制ゴールを決め2-0での勝利に貢献。決勝トーナメントでも初戦のサウジアラビア戦でゴールを決め、日本の準優勝に貢献した。
日本は翌年に開催されるFIFA U-20ワールドカップの出場権を獲得した。

2007年には新潟でリーグ戦で14試合に出場するも1ゴールに終わる。
矢野貴章やエジミウソン、深井正樹といった主力が起用されたため、途中出場が多かった。
同年開催されたFIFA U-20ワールドカップにU-20日本代表として出場。
いわゆる「調子乗り世代」の点取り屋として背番号9を託される。
グループリーグ初戦のスコットランド戦、コスタリカ戦に森島康仁と2トップを組んで先発出場し、ゴールは奪えなかったが日本の連勝に貢献。
決勝トーナメントでは初戦のチェコ戦に先発出場するもPK戦の末に惜しくも敗れた。

2008年は新潟でリーグ戦18試合に出場するもレギュラーの座はつかめず、ノーゴールに終わる不本意なシーズンとなった。

2009年に出場機会を求めて、J2栃木SCへレンタル移籍。
松田浩監督のもとでFWだけでなく2列目のポジションでもプレーし、シーズンを通して主力として活躍。
加入1年目ながら高い得点能力を見せ、チーム得点王となるリーグ戦48試合に出場し13得点を決めた。

2010年は新潟へ復帰するも出場機会は得られず、同年8月には大分トリニータへレンタル移籍。
エース高松大樹や年代別代表で共に戦った森島康仁と2トップを組み、リーグ戦17試合に出場した。

2011年は再び栃木SCへレンタル移籍。翌年の2012年には完全移籍を果たした。
栃木では再びMFとしてプレー。
2シーズンの在籍でリーグ戦45試合の出場で2ゴールに留まったが、フリーランニングからスペースを作る動きで攻撃を演出し多くの得点チャンスを作った。

2013年はJ2愛媛FCへ移籍。
加入当初はアタッカーとしてプレーするも、2年目からはFWとして活躍。
2014年にはリーグ戦38試合で13ゴールをマークし、チームの得点源として活躍した。
2015年にはプレーオフ進出に貢献した。

愛媛FCには7シーズン在籍。
チーム得点王に3度輝くなど活躍し、2019年に現役を引退した。

河原和寿の引退後と現在

河原は引退後、2020年から指導者へ転身。

愛媛FCの下部組織で2年間指導を行い、2023年からトップチームのコーチに就任している。

調子乗り世代のエースとして名が知れ渡ったことから、ストライカーとしての印象が強い河原和寿だが、得点能力の高さだけでなく、献身的な守備や前線でスペースを作る能力に秀でており、2列目としても優秀な選手であった。

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