全国高校サッカー選手権では、史上初となるDFでの得点王を獲得。同年代では攻守において別格の存在であった金古聖司。
東福岡高校3年時には、全国高校サッカー選手権大会、インターハイ、高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会を制し、高校3冠を達成。3年時にはキャプテンとして選手権2連覇を達成すると同年にはU-19日本代表、U-21日本代表に選出。トルシエ監督から大きな期待をかけられたストッパーだった。
しかし鳴り物入りで鹿島アントラーズに入団後、金子聖司は怪我との戦いを強いられる。治ってはまた再発し、日本代表入りはおろか試合出場もままならないシーズンが続いた。尊敬する秋田豊から背番号3を譲り受けるも岩政大樹の台頭によりポジションを奪われる。その後は、ヴィッセル神戸、アビスパ福岡、名古屋グランパスへ移籍するも目立った活躍は出来ずに退団する。
Jリーグを去った金古聖司が選択した次のステージはアジアだった。シンガポール、インドネシア、タイ、ミャンマー。4か国を渡り歩き実に7年もの間、東南アジアで戦うことを金古は選択したのだった。
金古聖司のJリーグ入り前
江上小学校1年生の時にサッカーを始め、早くから注目を集める。小学校から九州選抜に選出されると久留米市立城島中学校進学後も引き続き九州選抜で活躍した。
中学校卒業後はサッカーの名門である東福岡高校へ進学。
同級生には千代反田充、富長康博、宮原裕司、1学年上には本山雅志、古賀誠史、手島和希がいた。
金古は1年時から背番号15を背負い、センターバックとして活躍。高校2年時には千代反田充とコンビを組み鉄壁の守備を誇った。
選手権では1回戦の富山第一、2回戦の情報科学、準々決勝の逗葉、そして準決勝の丸岡戦でゴールを決め続ける。雪の中で行われた決勝戦では中田浩二擁する帝京高校を2-1で破り、全国制覇を達成。金古はDFながらこの大会で5得点を決め、史上初のDFでの大会得点王となった。
高校3年時には、U19日本代表に選出され、アジアユース選手権にレギュラーとして出場。その1ヶ月後に行われたアジア大会のU-21代表にも高校生ながら選出された。1998年の全国高校選手権ではキャプテンとしてチームを牽引し2連覇を達成した。
1対1の強さと正確なフィード力をもった金古は同年代では群を抜いて高い能力をもっており高校ナンバー1DFとして高い評価を受けていた。
高校卒業後の1999年、金子は鹿島アントラーズへ入団する。
金古聖司のJリーグ入り後
高い評価を受けて入団し鹿島へ入団した金子だったが、プロ入り後は怪我との戦いが続いた。
ブルキナファソで行われた年代別日本代表の強化合宿中の練習試合に出場した際に、膝を負傷。日本へ帰国後の検査結果で、「左膝十字靭帯断裂及び、左膝半月板損傷」と診断された。この怪我は全治1年と診断され、迫っていたワールドユースはもちろん、プロ1年目のシーズンを全く出場機会のないままに終えることとなった。
プロ2年目の2000年3月25日、1stステージ第3節アビスパ福岡戦でJリーグデビューを飾るが、この後も怪我がつきまといプロ2年目はリーグ戦10試合、3年目からは8試合、3試合、2試合とプロ入り5年間はほとんど出場することが出来なかった。
プロ入り6年目の2004年、金子が尊敬するプレーヤーである秋田豊が退団。秋田が背負っていた背番号3を譲り受けた金古は開幕戦から出場を続ける。
この年は自己最多となるリーグ戦22試合に出場し3ゴールを決め、復活の兆しを見せるも、岩政大樹が急成長を見せポジションを奪われてしまう。
再びポジションを失った金古は2005年シーズン途中にヴィッセル神戸へレンタル移籍。
その後はアビスパ福岡、名古屋グランパスへレンタル移籍をし、2008年に鹿島へ復帰を果たすもリーグ戦出場がなくこの年限りで鹿島を退団する。
2009年、2月にJリーグのキャンプがスタートしても所属先が見つからなかった金古は新天地を東南アジアへ求めることとなる。
シンガポールへ渡り、シンガポールプレミアリーグのタンピネス・ローバースFCと契約。
ここで金古は復活し、1年目からリーグ戦29試合に出場し5得点を挙げる活躍を見せる。加入3年目の2011年にはシンガポールプレミアリーグ制覇に大きく貢献した。
2011-2012シーズンからはインドネシアに渡り、インドネシアスーパーリーグのミトラ・クカールFCへ加入。
ここでも主力として活躍しリーグ戦22試合に出場した。
2013年にタンピネス・ローバースFCへ復帰後、2014年はタイリーグのアーントーンFC、そして2015年はミャンマーナショナルリーグのヤンゴン・ユナイテッドFCでプレーをする。
7年間で4ヶ国を渡り歩き、金子は2015年限りで現役を引退した。
金古聖司の引退後と現在
金古聖司は現役引退後、2016年4月から埼玉県北部の強豪校である本庄第一高等学校の監督に就任している。
金古はプロ・コーチとしてではなく、同校の事務職員を務めながら選手の指導を行なう日々を送っている。その理由はもっと選手を内側から見たいというものだった。
小学校時代から注目を集め、高校年代から飛び級で年代別日本代表に選出。鹿島入団後は10年間はセンターバックは安泰だと言わしめた金古だったがJリーグでは思うような結果を残せなかった。
しかし、新天地を求めて飛び出した東南アジアで金古は復活を遂げた。決して注目度の高くない、設備も日本に比較できないほど過酷な状況の中ではあるが7年間に渡り戦い続けた。
紆余曲折したプロ生活を送った金古聖司。天国も地獄も味わった男は、かつて脚光を浴びた高校サッカーを舞台に第二のサッカー人生を楽しんでいる。