身長185センチ72キロの恵まれた体格を生かした守備に定評のあるDF平岡靖成。
相手チームのエースのマークにつくことが多く、守備の要として京都、大分、名古屋、大宮で活躍した。
2001年にはJリーグオールスターに選出され、3バックの一角を担った。
正確なフィードも魅力で、ビルドアップの起点になれる選手であった。
平岡靖成のJリーグ入り前
矢板市立矢板小学校入学後にサッカーを始める。
矢板中学校卒業後、栃木県立矢板東高等学校へ進学。
高校時代は選手権への出場はなく、全国的に無名の選手であった。
高校卒業後、順天堂大学へ進学。
同学年に大嶽真人(セレッソ大阪)、千葉泰伸(ベガルタ仙台)、1学年上に遠藤昌浩(ジュビロ磐田)、1学年下に名波浩(ジュビロ磐田)、森下仁志(ガンバ大阪)、藏田茂樹(セレッソ大阪)らがいる。
大学時代は恵まれた体格を生かしたセンターバックとして活躍。
大学4年次には総理大臣杯優勝を果たした。
大学卒業後、大塚製薬サッカー部(現徳島ヴォルティス)に入団。
石井肇監督のもとで入団1年目から出場機会を掴む。
入団3年目となる1996年にはレギュラーを確保しリーグ戦24試合に出場した。
この活躍を受け、1997年に京都パープルサンガへ移籍する。
平岡靖成のJリーグ入り後
ペドロ・ローシャ監督のもとで1997年3月29日のヤマザキナビスコカップ、アビスパ福岡との試合で公式戦デビューを果たす。
リーグ戦でも4月16日のジェフユナイテッド市原戦でスタメンで初出場を果たし、勝利に貢献した。
平岡は、ブラジル人DFカポネ、カルロスと3バックを形成しその後も不動のセンターバックとして出場するも、京都は1stステージを失点数ワースト2位で折り返すことになった。京都は2ndステージから4バックに切り替えたが、チーム成績は奮わず年間順位14位に留まった。
1998年は元日本代表監督のハンス・オフトが指揮官に就任したが、平岡は出場機会が激減しリーグ戦2試合の出場に留まり、この年をもって京都を退団した。
1999年はJ2の大分トリニータへ移籍。
この年の大分は石﨑信弘が監督に就任したが、戦力やチーム環境は十分ではなく、昇格候補とは呼べない存在であった。
しかし、相手チームの良さを消し、中盤からプレスを仕掛けるサッカーがはまり、順当に勝ち星を重ね、昇格争いに名乗り出る。
平岡は、守備の中心選手として活躍し、J1昇格のかかった2位争いは最終節までもつれたが、惜しくもホームでの最終節で山形に引き分け、昇格を逃すことになった。
2000年も大分の守備の中心として君臨していたが、シーズン途中に名古屋グランパスへレンタル移籍。
名古屋では空中戦の強さを武器にセンターバックとして活躍。
2001年に完全移籍を果たすと、Jリーグたらみオールスターサッカーのメンバーに選出される。
J-WESTで宮本恒靖、森岡隆三と3バックを組み、フル出場を果たした。
しかし2002年以降は出場機会が減少し、2003年は出場機会がなく名古屋を退団。
2004年にはJ2大宮アルディージャへ移籍。
守備の要であるトニーニョの牙城は崩せず、出場機会は少なかったが、J1昇格を経験する。
2005年はトニーニョがボランチに上がった際に、平岡がセンターバックを務める試合も多く、リーグ戦16試合に出場した。
2006年は第2第3腰椎左横突起骨折の影響や、柏レイソルから移籍してきた土屋征夫の活躍もあり、リーグ戦3試合の出場に留まるとシーズン終了後に戦力外通告を受けた。
しかし2007年に大宮は平岡との再契約を発表。
出場機会はなかったが、ベテランとしてピッチ外でもクラブを支えた。
平岡はこの年をもって現役を引退した。
平岡靖成の引退後と現在
平岡は引退後、大宮アルディージャU-12のコーチに就任。
現在は大宮アルディージャのアカデミーダイレクターとして活躍している。