スピード感溢れる鋭い突破力で、得点を量産したアルシンド。
在籍した鹿島では71試合の出場で50得点を記録。これは驚異的な数字である。
流れの中からの得点もさることながら、アルシンドはFKの技術も高く、直接決めたFKでのゴールは13得点を数える。
アルシンドは独特のヘアスタイルとキャラクターでJリーグ創世記の人気を集め、当時の知名度はラモス瑠偉や三浦知良らを凌ぐものであった。
Jリーグが生んだ最初のスター選手、アルシンドに迫る。
アルシンドのJリーグ入り前
ブラジルの名門CRフラメンゴの下部組織でサッカーを学ぶ。
19歳の時にトップチームでのデビューを果たす。
フラメンゴには後に鹿島アントラーズで共にプレーをするジーコや元ブラジル代表のジュニオールらと共にプレーをした。
フラメンゴには5シーズン在籍したがベベットやレナト・ガウショなどブラジルを代表するFWが多く在籍していたチームにおいて中々ポジションを得ることは出来ずにいた。
1987年にはU-20ブラジル代表の一員としてチリで開催されたFIFAワールドユース選手権に出場。4試合すべてに出場して2得点を挙げた。
その後は1991年にサンパウロ、翌年にはグレミオというブラジル屈指の名門を渡り歩くもいずれもレギュラーを獲得までは至らなかった。
そんな中、フラメンゴで共にプレーをし、1991年から住友金属(現鹿島アントラーズ)でプレーをしているジーコから日本でプレーをしてみないかと誘いを受ける。
アルシンドはこの時の心境について後年こう語っている。
「ジーコは恩師であり、先生みたいな存在。彼にものを言われて断ることなんて絶対ないよ。結局、年棒がいくらなのかも聞かされないまま日本行が決まった」
アルシンドはJリーグが開幕した1993年に、鹿島アントラーズへ入団する。
アルシンドのJリーグ入り後
入団当初はさほど巷での期待値は高くなかったアルシンドだったが1993年の名古屋グランパスエイトとの開幕戦で2得点を上げると、そのまま快調を維持し抜群のスピードと得点感覚で得点を量産。
得点王こそ逃すも、28試合に出場して22得点を挙げる活躍を見せた。
また独特のヘアスタイルと陽気なキャラクターで一躍人気者となったアルシンドは、多くのテレビ番組やCMに出演し、Jリーグを盛り上げた。
翌年の1994年もアルシンドは鹿島アントラーズのエースとして君臨。
長谷川祥之や黒崎比差支らとともに鹿島アントラーズの攻撃陣の中心として得点を重ねていき、このシーズンも43試合に出場して28得点を挙げた。
しかし、契約更新の際、金銭面の問題を巡って鹿島アントラーズフロントと対立し1994年のシーズン限りで鹿島を退団することになる。
1995年はヴェルディ川崎へ移籍。
三浦知良や武田修宏とスリートップを形成し、ここでも得点を量産。
38試合に出場し19得点を挙げる。
しかしヴェルディでも契約交渉で決裂してしまい1シーズン限りで退団。
1996年はJFLのコンサドーレ札幌へ加入するも、判定を不服とした審判への暴言での4試合出場停止や復帰後のゲームで再度退場処分になるなど思うようにプレーが出来ず、コンサドーレをシーズン途中で退団。
その後はブラジルへ帰国し、コリンチャンスやフルミネンセでプレーし、1997年にヴェルディ川崎に復帰。
前園真聖や永井秀樹らとヴェルディ攻撃陣を支え、16試合に出場し10得点を挙げるも全盛期のような活躍は出来ず1シーズンで退団。
その後はブラジル国内のフルミネンセ、カボフリエンセ、CFZを転々とし2000年シーズンをもってユニフォームを抜いだ。
アルシンドの引退後と現在
アルシンドは引退後、ブラジル国内のパラナ州サンミゲル・ド・イグアス市に400haの農地を所有し、農場を経営している。
2011年の東日本大震災の際には、ジーコとともに発起人となって、いち早くチャリティーマッチを開催するなど、復興支援にも尽力した。
2015年にはブラジル女子サッカーチームのフォス・カタラタスの監督に就任するなど指導者としての道も歩んでいる。
Jリーグ創世記はジーコ、リネカー、リトバルスキーなど世界的にも有名な外国人が多く参入したが、アルシンドは世界的にはまったく無名であるにも関わらず、圧倒的な結果と絶大な人気を得た。
無名外国人プレイヤーの希望ともなったアルシンドは、頭髪だけではなく功績も輝きを失われることはない。