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矢野隼人の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第340回】

将来を期待させるテクニック、期待を抱かせるサイズ、同年代を圧倒するフィジカルを武器に、帝京高校時代は世代を代表するストライカーとして名を馳せた矢野隼人。

高校時代にはヴェルディ川崎に強化指定選手として入団し、在学中にスタメンでJリーグデビューを果たす。

高校を卒業後は鳴り物入りでヴェルディ川崎に入団。

矢野隼人について当時のヴェルディ川崎監督の李国秀氏は「とても華のある選手。夏前には出てくる」と期待を寄せた。

矢野隼人はそのダイナミックなプレースタイルや、丸刈りで高校生離れした風貌から「和製ロナウド」と呼ばれ、世間から大きな注目を集めた。

しかし名門の背番号9を託された矢野は、プロ1年目は僅か1試合の出場に終わると、その後は目立った活躍を見せることなくJの舞台から去ることになる。

矢野隼人のJリーグ入り前

矢野は1980年に大阪府に3人兄弟の末っ子として生まれた。

上杜小学校に入学後、サッカーを始め、名古屋市立高針台中学校を経て、愛知県立愛知工業高等学校へ入学。

当時は地元のクラブチームである愛知FCでプレーしていたが、本格的にサッカーに取り組むため、高校2年次に選手権の常連である東京の帝京高校へ転校。

帝京に入学後はすぐに頭角を現す。

2年生で帝京の背番号9を背負った矢野は、3年の高橋泰(後にサンフレッチェ広島やアビスパ福岡でプレー)と2トップを組み、得点を量産。

高校生離れしたスピードでDFを置き去りに、2回戦の草津東戦、3回戦の四日市中央工戦で得点を挙げた。決勝では金古聖司千代反田充を擁する東福岡高校と対戦。矢野は得点を挙げるも、2-4で辛くも敗れた。

3年次にはヴェルディ川崎の強化指定選手に選出。1999Jリーグ2ndステージ第6節のベルマーレ平塚戦でスタメンで初出場を飾る。矢野はこの出場で「J1公式戦出場した強化指定選手」第1号となった。

ベンチに日本代表経験のある高木琢也山田隆裕、ブラジルのグレミオでのプレー経験のあるジェフェルソンらを追いやっての抜擢だったが、目立った活躍は出来ずに前半のみで交代となった。

帝京でも1学年下の田中達也(後に浦和レッズ、アルビレックス新潟でプレー)との息の合ったコンビで活躍を見せた。

3年次に出場した選手権では2回戦の関西大第一戦ではフリーキックを決め、3回戦の星稜戦では自ら得たPKを決める。しかし準々決勝の鹿児島実業戦では松井大輔や田原豊、那須大亮らと対戦するも激戦の末、1-2でまたしても準優勝に終わった。

選手権制覇の夢は叶わなかった矢野だが、和製ロナウドというニックネームで世間から大きな注目を集めた。

帝京高校を卒業した矢野は、満を持してヴェルディ川崎へ入団する。

矢野隼人のJリーグ入り後

前年度年間順位7位に終わったヴェルディは、開幕戦のガンバ大阪戦で勝利を挙げるも、その後は3連敗。

キムヒョンソクや飯尾一慶、桜井直人らが奮闘するも勝ちきれない試合が続いた。

矢野自身もルーキーながら背番号9を与えられ、大きな期待を寄せられたがチャンスを掴めず、この年はリーグ戦1試合、19分の出場に留まった。

翌年は背番号17になり、再起を図るシーズンとなった。 第3節清水エスパルス戦で石塚と2トップを組み、先発出場を果たしが無得点に終わり、前半のみで武田修宏と交代となった。矢野はこの年、監督の松木安太郎氏からの信頼は得られず、チームも武田修宏、前園真聖小倉隆史などの攻撃的な選手を多く抱えていたことから出場機会に恵まれず、この年も僅か3試合の出場となった。

2002年はヴァンフォーレ甲府に期限付き移籍するも甲府でもリーグ戦1試合の出場に留まった。2ndステージでヴェルディ復帰後は背番号3を背負い、ベンチ入りの機会を増やすも、エジムンド平本一樹の牙城は崩せず、このシーズンも無得点に終わるとこの年限りで退団となった。

矢野隼人の引退後と現在

矢野隼人は現役引退後、一旦サッカーから距離を置いた生活をしていたが、2007年にJFLのFC刈谷にて現役復帰を果たし、その後は指導者として生まれ育った東海地区で新たなキャリアをスタートさせている。

和製ロナウドという異名を持った矢野の高校時代のプレーを知る者からすれば、Jリーグでの戦績は振るわなかったと言わざるを得ない。

短く刈られた頭に大きめのユニフォームを着て、初速がとてつもなく速いFW。
ボールを持ったら、どんなプレーを見せてくれるのか胸が躍った。矢野は間違いなく華のある選手だった。

酸いも甘いも経験し、指導者としてサッカー界に戻ってきた矢野隼人が送り出す選手はどんな選手なのか。

楽しみでないわけがない。

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