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ドニゼッチの現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第239回】

現役ブラジル代表ストライカーとして、鳴り物入りでヴェルディ川崎に加入したドニゼッチ。

日本の絶対的エースである三浦知良の強力なツートップは、1996年のJリーグの目玉のひとつとなった。

ワンタッチでDFをかわしコースをつく鮮やかなシュートテクニックをもつドニゼッチのプレースタイルはJリーグでどれほどの結果を出してくれるのか大きな期待が集まった。

しかしドニゼッチはその力を証明する事なく日本を離れる事になる。

ドニゼッチのJリーグ入り前


ドニゼッチは1968年にブラジル・ミナスジェライス州のプラドスに生まれた。

1987年、ドニゼッチが19歳の時にリオデジャネイロ州に本拠地を置くヴォルタ・レドンダFCでプロキャリアをスタートさせる。

その数ヶ月後にサンジョゼECへ移籍。そこでサンパウロ州選手権準優勝を経験。

その後、ドニゼッチは1989年に名門ボタフォゴFRと契約。リーグ戦15試合に出場し1ゴールを決めた。

翌年の1990年、ドニゼッチはメキシコのテコスFCへ移籍。ここでドニゼッチは活躍し、1993-1994シーズンにメキシコ国内最上位リーグであるリーガMXで優勝の飾る。ドニゼッチは4シーズン在籍し通算183試合に出場、39得点を挙げた。

1995年、ドニゼッチはボタフォゴに復帰。主力として活躍しブラジル全国選手権の優勝に貢献。ツートップを組んだトゥーリオ・マラヴィーリャと絶妙なコンビネーションを見せ、トゥーリオはドニゼッチのアシストもあり2年連続でリーグ得点王に輝いた。

この年、ドニゼッチは活躍が認められブラジル代表に選出。11月8日の親善試合アルゼンチン戦で代表デビューを飾る。この試合でドニゼッチはゴールを決め1-0での勝利に貢献している。翌年のCONCACAFゴールドカップにもブラジル代表の一員として参加している。

1996年、Jリーグのヴェルディ川崎からオファーを受け契約を結ぶ。現役ブラジル代表ストライカーの加入は大いに注目を集めた。

ドニゼッチのJリーグ入り後

ヴェルディ入団後、ドニゼッチはプレシーズンマッチで躍動。スピードがあり、ダイナミックなプレースタイルから「黒豹」と呼ばれた。
プレシーズンマッチでは2試合連続ハットトリックを決めるなどコンディションも良く、得点王候補に名を連ねるなど早くもドニゼッチへの期待が高まっていた。

1996年3月16日1stステージ第1節京都パープルサンガ戦でJリーグ初出場を果たす。日本のエースである三浦知良とツートップを組み1-0での開幕戦勝利に貢献した。

続く第2節ベルマーレ平塚戦では早くも2ゴールを決める。その後もカズとのツートップ、もしくは2列目に位置し、先発出場を続けるもヴェルディはなかなか調子が上向かず、監督のネルシーニョが解任。レオン監督を招聘し立て直しを図る。

ドニゼッチも1stステージ14試合に出場し6得点と寂しい成績に終わり、2ndステージの巻き返しが期待された。

しかしドニゼッチは突然退団を表明。その理由は日本の環境に慣れないといったものだった。
大きな期待を集めたドニゼッチだったが僅か半年といった期間で日本を離れる事になった。

ヴェルディ退団後、ドニゼッチはポルトガルリーグのSLベンフィカへ入団。リーグ戦16試合に出場し7ゴールの活躍を見せた。

その後、1997年にブラジルに帰国。コリンチャンスやクルゼイロ、ヴァスコ・ダ・ガマを渡り歩く。1997年にはクルゼイロから、1998年にはヴァスコ・ダ・ガマから2年連続でトヨタカップに出場した。

ブラジル代表としても定期的に招集を受けていたが1998年のフランスワールドカップには出場出来なかった。この事は本人もとてもショッキングな出来事であったと後のインタビューで語っている。

その後、ドニゼッチはメキシコとブラジル国内の様々なチームを渡り歩き、2006年に現役を引退した。

ドニゼッチの引退後と現在

ドニゼッチは引退後、ブラジルで代理人業務を営んでいる。主に若い選手と契約を結び、ドイツを中心にプロジェクトを展開している。

現役ブラジル代表ストライカーであったドニゼッチはJリーグで満足のいくシーズンは送れなかった。だが時折見せたしなやかなタッチからどんな体勢でもシュートにもっていく強い得点への意識は流石であった。

ヴェルディを電撃退団した後も、1998年にヴァスコ・ダ・ガマで南米最高のタイトルであるリベルタドーレス杯制覇に貢献。決勝戦ではゴールを決める活躍を見せている。

ドニゼッチの能力の高さは疑いようのないものだった。環境に順応さえ出来ればJリーグでも実力を証明出来たのではないだろうか。

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