稲本潤一の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第518回】
2002年の日韓ワールドカップ。
日本代表の中盤で躍動する稲本潤一の姿があった。
ベルギー戦でゴールを決める。
そして続くロシア戦でもゴール。
日本はワールドカップで初めて勝利を挙げ、初の決勝トーナメント進出を果たした。
当時22歳だった稲本は、その中心選手の一人だった。
強いフィジカル。
豊富な運動量。
ボールを奪う守備力。
そして、守備だけではなく自らゴール前まで飛び出していく攻撃力。
ボランチでありながら得点力を持つ稲本は、日本代表の中盤に欠かせない存在となった。
ガンバ大阪ユースからトップチームへ昇格すると、17歳でJリーグデビュー。
その後、アーセナルへ移籍し、フラムではプレミアリーグでもプレーした。
さらにウェスト・ブロムウィッチ、カーディフ、ガラタサライ、フランクフルト、スタッド・レンヌと海外のクラブを渡り歩いた。
日本代表としては3度のワールドカップに出場。
2010年に日本へ戻ってからも、川崎フロンターレ、北海道コンサドーレ札幌、SC相模原、南葛SCでプレーを続けた。
2024年に現役を引退。
2025年からは川崎フロンターレの育成部コーチとして、今度は指導者としてサッカーに携わっている。
稲本潤一のプロ入り前
稲本潤一は1979年9月18日、大阪府堺市に生まれた。
幼い頃からサッカーを始め、小学生時代には青英学園SCでプレー。
その後、ガンバ大阪ジュニアユースへ進んだ。
中学、高校とガンバ大阪の下部組織で育ち、将来のプロ選手を目指していく。
当時から稲本の特徴だったのが、恵まれた身体能力と技術だ。
中盤でボールを奪うだけではなく、そこから自分で前へ運ぶこともできた。
そして高校年代になると、年代別の日本代表にも選ばれる。
1995年のFIFA U-17世界選手権にも出場した。
この世代には、後に日本代表でともにプレーすることになる選手がいた。
この頃から、稲本は将来を期待される選手の一人だった。
そして1997年。
高校3年生だった稲本は、ガンバ大阪のトップチームへ昇格する。
まだ17歳。
しかし、その才能はすぐにプロの舞台でも発揮されることになる。

稲本潤一のプロ入り後
1997年4月12日。
ガンバ大阪対ベルマーレ平塚戦でJリーグデビューを果たした。
17歳でのJリーグデビューだった。
プロ1年目からリーグ戦27試合に出場して3得点。
翌1998年には28試合に出場して6得点を記録した。
10代の選手ながら、ガンバ大阪の中盤で存在感を発揮していた。
そして1999年。
稲本はU-20日本代表の一員として、ナイジェリアで開催されたワールドユース選手権に出場する。
このチームには、小野伸二、高原直泰、小笠原満男、中田浩二、遠藤保仁らがいた。
日本は決勝まで進出。
最後はスペインに敗れたものの、ワールドユース準優勝という結果を残した。
後に「黄金世代」と呼ばれる選手たちが、世界にその存在を示した大会だった。
稲本も中盤の選手としてチームを支えた。
ガンバ大阪ではさらに経験を積み、2000年にはリーグ戦28試合に出場して4得点。
そして2001年。
稲本に大きな転機が訪れる。
イングランドの名門、アーセナルへ移籍した。
日本でまだ21歳だった稲本が、世界最高峰のリーグの一つであるプレミアリーグへ挑戦することになった。
ただ、アーセナルではリーグ戦の出場機会を得られなかった。
そこでフラムへレンタル移籍する。
フラムでは出場機会を増やし、プレミアリーグでプレー。
その後、完全移籍を果たした。
そして2002年。
稲本にとって、そして日本サッカーにとって大きな大会がやってくる。
日韓ワールドカップだ。
日本代表の中盤には、稲本のほか中田英寿、小野伸二、戸田和幸、中田浩二らがいた。
初戦のベルギー戦。
日本が先制された後、鈴木隆行のゴールで追いつく。
そして67分。
右サイドからのボールを稲本が受け、右足でゴールを決めた。
日本は2-2で引き分けた。
続く第2戦のロシア戦。
51分、稲本が決勝ゴールを決める。
日本は1-0で勝利。
ワールドカップで初めて勝ち点3を獲得した。
そして第3戦のチュニジア戦にも勝利し、日本はグループリーグを突破。
ワールドカップ初の決勝トーナメント進出を果たした。
JFAの記録にも、ベルギー戦で稲本がゴールを決め、続くロシア戦でも稲本のゴールによって日本がワールドカップ初勝利を挙げたことが残っている。
稲本自身にとっても、世界に名前を知られる大会となった。
その後もフラムでプレーを続け、2002-03シーズンにはプレミアリーグ19試合で2得点。
翌2003-04シーズンには22試合で2得点を記録した。
プレミアリーグでコンスタントに出場する日本人選手として、その存在感を高めていった。
しかし2004年には怪我に苦しむ。
その後、ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン、カーディフ・シティなどでプレー。
2005年にはトルコのガラタサライへ移籍した。
ガラタサライではUEFAチャンピオンズリーグにも出場。
さらに2006年にはドイツのフランクフルトへ移籍した。
2006年ドイツワールドカップにも出場し、2大会連続でワールドカップの舞台に立った。
その後はフランスのスタッド・レンヌでもプレー。
海外で約9年間にわたってプレーした。
そして2010年。
稲本は日本へ戻る。
移籍先は川崎フロンターレだった。
川崎では2010年から2014年までプレー。
Jリーグ復帰後も中盤の中心選手として活躍した。
川崎フロンターレではリーグ戦134試合に出場して3得点を記録している。
2015年には北海道コンサドーレ札幌へ移籍。
ベテランとしてチームを支え、2016年にはJ2優勝とJ1昇格を経験した。
その後、2019年にはSC相模原へ移籍。
J3でもプレーした。
そして2022年。
稲本は南葛SCへ加入する。
南葛SCでは40代になってもプレーを続けた。
2023年も現役を続け、2024年シーズンを最後にスパイクを脱ぐことを決めた。
17歳でJリーグデビューを果たしてから27年。
日本、イングランド、トルコ、ドイツ、フランスでプレーした現役生活を終えることになった。
川崎フロンターレの公式発表でも、ガンバ大阪から始まり、アーセナル、フラム、ウェスト・ブロムウィッチ、カーディフ、ガラタサライ、フランクフルト、スタッド・レンヌ、川崎、札幌、SC相模原、南葛SCという稲本の所属歴が確認できる。
稲本潤一のプレースタイル
稲本潤一のプレースタイルを語るうえで、最も大きな特徴がフィジカルの強さだ。
身長181cm。
中盤の選手としては恵まれた体格を持っていた。
相手選手と身体をぶつけながらボールを奪う。
そしてボールを奪った後、そのまま攻撃へ移る。
守備だけをするボランチではなかった。
稲本は攻撃にも大きな特徴を持っていた。
特に印象的なのが、後方からの飛び出しだ。
中盤でボールを奪ったと思ったら、そのまま前へ走る。
味方のFWが相手DFを引きつける。
その瞬間に稲本がペナルティエリアへ入ってくる。
そしてボールを受けてシュート。
2002年ワールドカップのベルギー戦、ロシア戦のゴールにも、こうした稲本の特徴が表れている。
ボランチの選手でありながら、ゴール前で得点に絡む。
これが稲本の大きな武器だった。
もちろん守備力も高かった。
相手の攻撃を読み、ボールを奪う。
身体を寄せて自由を与えない。
相手のパスコースを消す。
そしてボールを奪った後は、すぐに攻撃へ切り替える。
攻守の切り替えの速さも、稲本の魅力だった。
また、ボールを奪った後に自分で運べることも大きかった。
スペースがあればドリブルで前へ進む。
味方が空いていればパスを出す。
ゴールが見えればシュートを狙う。
選択肢を複数持っていた。
そのため相手からすると、稲本がボールを奪った後の対応が難しい。
後ろに残っていると思っていると、突然前へ出てくる。
守備だけを警戒していると、今度は自らゴールを狙ってくる。
そうしたプレーが、稲本の存在感につながっていた。
日本代表では、戸田和幸、明神智和、福西崇史らも中盤の守備を担った。
その中で稲本は、守備力だけではなく攻撃参加にも特徴を持っていた。
2002年のベルギー戦では、稲本がゴールを決めた際、同じ中盤には中田英寿、小野伸二、戸田和幸が並んでいた。JFAの公式記録からも、その試合で稲本が中田英寿、小野、戸田らと中盤を形成していたことが確認できる。
さらに、稲本にはミドルシュートという武器もあった。
ペナルティエリアの外から右足を振り抜く。
強烈なシュートでゴールを狙う。
中盤の選手が得点できることは、チームにとって大きなメリットになる。
相手DFがFWだけを警戒しているところへ、後方から稲本が入ってくる。
そのため、稲本がいることで攻撃に厚みが生まれた。
一方で、派手なドリブルで相手を何人も抜いていくタイプではなかった。
自分の身体能力と技術を使い、シンプルにプレーする。
ボールを奪えば前へ。
スペースがあれば走る。
味方がいればパスを出す。
シュートを打てるなら打つ。
そうした判断の速さも稲本の特徴だった。
そして、90分間を通して攻守に関わり続ける。
これが稲本のプレースタイルだった。
海外でも長くプレーできたのは、守備だけ、攻撃だけという一つの能力に頼るのではなく、複数の役割をこなせたからだろう。
アーセナル、フラム、ウェスト・ブロムウィッチ、カーディフ、ガラタサライ、フランクフルト、スタッド・レンヌ。
それぞれ異なるサッカー文化を持つクラブでプレーした。
その中で稲本は、自分の武器を生かし続けた。
強いフィジカル。
ボール奪取。
豊富な運動量。
前線への飛び出し。
そしてミドルシュート。
攻守両面でチームに貢献できるボランチ。
それが稲本潤一という選手だった。
稲本潤一の引退後と現在
2024年、稲本は南葛SCで現役生活を終えた。
1997年に17歳でガンバ大阪からJリーグデビューを果たしてから27年。
日本代表では82試合に出場し、2002年、2006年、2010年と3大会連続でワールドカップに出場した。
そして、アーセナル、フラム、ウェスト・ブロムウィッチ、カーディフ、ガラタサライ、フランクフルト、スタッド・レンヌと、海外のクラブでもプレーした。
特に2002年の日韓ワールドカップでは、ベルギー戦とロシア戦でゴールを決め、日本の初の決勝トーナメント進出に貢献した。
現役引退後、稲本が選んだのは指導者の道だった。
2025年より、川崎フロンターレの育成部コーチに就任。
現役時代に自ら経験したことを、今度は次の世代の選手たちへ伝える立場となった。
川崎フロンターレは2024年12月、稲本の翌2025シーズンからの育成部コーチ就任を正式に発表している。
そして2026年。
稲本は川崎フロンターレの「Frontale Relations Organizer(FRO)」にも就任した。
FROとして、アカデミーやスクールでの育成・普及活動、地域貢献、プロモーション活動などにも携わっている。
17歳でプロの世界へ飛び込み、22歳でワールドカップに出場。
その大会で2ゴールを決め、日本を初めて決勝トーナメントへ導いた。
その後は海外へ渡り、イングランド、トルコ、ドイツ、フランスでプレー。
日本へ戻ってからも、川崎フロンターレ、北海道コンサドーレ札幌、SC相模原、南葛SCでプレーを続けた。
長い現役生活の中で、稲本は多くの選手とともにプレーしてきた。
1999年のワールドユースでは、小野伸二、高原直泰、小笠原満男、遠藤保仁らとともに世界を戦った。
2002年のワールドカップでは、中田英寿、小野伸二、戸田和幸らと日本代表の中盤を支えた。
そして海外では、日本人選手がまだ現在ほど多くなかった時代に、プレミアリーグをはじめヨーロッパの舞台へ挑戦した。
稲本潤一のキャリアを振り返ると、やはり2002年の日韓ワールドカップが大きな転機だった。
ベルギー戦のゴール。
ロシア戦の決勝ゴール。
日本中が注目する舞台で、22歳のボランチが2試合連続でゴールを決めた。
しかし、稲本の魅力はその2ゴールだけではない。
中盤で身体を張る。
相手からボールを奪う。
前へ走る。
味方へパスを出す。
そして、自らゴールを狙う。
守備と攻撃の両方でチームに貢献する。
それが稲本潤一だった。
27年間の現役生活を終えた今、稲本は指導者として新しい道を歩んでいる。
かつて自分がガンバ大阪の育成組織で成長したように、今度は若い選手たちを育てる側になった。
世界の舞台で戦った経験。
海外クラブで味わった厳しさ。
日本代表としてワールドカップを戦った経験。
そのすべてが、これから指導者として若い選手たちへ受け継がれていく。
17歳で始まったプロサッカー選手としての人生は終わった。
しかし、稲本潤一のサッカー人生は終わっていない。
2025年から川崎フロンターレの育成部コーチとして新たな一歩を踏み出し、2026年からはFROとしてクラブの育成・普及や地域活動にも携わっている。
ピッチで戦う選手から、次の世代を育てる指導者へ。
稲本潤一の新しいサッカー人生は、これからも続いていく。

