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都築龍太の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【290回】

高い身体能力と抜群の反射神経で活躍した都築龍太。ロングキックも正確で堅守速攻のキーマンとなった。

読みも鋭くPK戦では強さを発揮。2007年のACL準決勝の城南一和戦やクラブワールドカップ3位決定戦という大舞台でPKを阻止し一躍注目を集めた。

浦和レッズには7シーズン半在籍しJリーグ、ナビスコカップ、天皇杯、ACLなど数々のタイトル獲得に貢献。2007年にはJリーグベストイレブンに選出されている。

日本代表としてもトルシエ、ジーコ、岡田武史から召集を受け国際Aマッチ6試合に出場。2009年にはワールドカップ予選のオーストラリア戦に先発出場し無失点に抑える活躍を見せた。

都築龍太のJリーグ入り前


都築は1978年に奈良県生駒郡平群町に生まれた。平群町立平群東小学校1年生の時にサッカーと出会う。

平群町立平群中学校進学後、サッカー部で頭角を現す。当初は奈良県の名門である奈良育英高校への進学を考えたが、小嶺忠敏に直接スカウトされ長崎県の国見高校へ進学した。

国見高校では都築の1学年上に船越優蔵、同学年に三好拓児、中川雄二がいる。都築が高校2年時に2年連続で全国高校サッカー選手権に出場。3年時はベスト8進出を果たした。全日本ユースではベスト4入りを達成。U18日本代表にも選出された。

高校卒業後、都築はガンバ大阪へ入団する。

都築龍太のJリーグ入り後

ガンバ大阪では正GKに岡中勇人がいた為に1年目は出場機会がなかったが、高い身体能力とと新人らしからぬ積極的なコーチングは高い評価を受けた。

翌年の1998年11月14日のジュビロ磐田戦でJリーグデビューを飾るもこの年はこの試合のみの出場となった。

2000年に岡中から正GKの座を奪い正GKとして抜擢されるとシドニーオリンピック日本代表に選出。しかし本大会ではオーバーエイジで楢崎正剛が選出されたために出場の機会はなかった。

2001年は日本代表にも選出され、FIFAコンフェデレーションズカップのブラジル戦、親善試合のセネガル戦に出場。日韓ワールドカップの代表入りも期待されたがGKは川口能活、楢崎正剛、曽ヶ端準が選出され、都築は選出されなかった。

2002年シーズンをもってガンバを退団し浦和レッズに入団。

浦和移籍後は同い年の山岸範宏とポジションを争う。2005年にレギュラーを掴むと天皇杯制覇、2006年のJリーグ優勝に貢献。

その後故障により一時レギュラーを奪われるも2007年はAFCチャンピオンズリーグ優勝、クラブW杯3位入賞に貢献。個人としてもJリーグベストイレブンに選出された。

2008年はレギュラーとしてフルシーズン稼働するも2009年は故障によりシーズン途中から山岸が正GKを務めた。

2010年シーズン途中に湘南ベルマーレへ移籍。

第11節鹿島アントラーズ戦で湘南デビューを飾り、リーグ戦15試合に出場を果たした。

2011年1月、ベルマーレ退団を発表。現役続行を目指したが所属先が決まらず現役引退を表明した。

都築龍太の引退後と現在

都築は現役引退後、政治家に転身。2015年からはさいたま市議会議員を務めている。

都築は政治家としてさいたま市の教育環境やスポーツの環境向上に注力している。さいたま市内の160の学校の人工芝化に向けた活動や充実したスポーツ施設の構築化などその活動は多岐に渡る。

元日本代表選手として知名度が高い分だけ都築に寄せられる期待も大きい。 かつて浦和レッズの最後の砦として数々のタイトルを獲得した守護神は、今度は政治の舞台でさいたま市の為に戦っている。

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