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楢崎正剛の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【287回】

日本サッカー史に名を残す偉大なGK楢崎正剛。

GKとしての総合能力は日本屈指であり、プロ入り2年目に日本代表に抜擢されると14年間に渡り代表に選出され続け国際Aマッチ77試合に出場。

Jリーグでは6度のベストイレブン、GKとして史上初のJリーグMVPなど個人タイトルを獲得。史上初の「Jリーグ公式戦100完封」や「歴代1位となるJ1リーグ631試合出場」という個人記録を打ち立てた。

ワールドカップには1998年、2002年、2006年、2010年と4大会連続で選出。ライバルである川口能活とともに日本のGKの歴史を作り続けた。

楢崎正剛のJリーグ入り前


楢崎は1976年に母親の実家がある徳島県に生まれた。

その後、奈良県香芝市で生まれ育ち香芝市立三和小学校に入学。父親が学生野球の経験者ということもあり幼い頃は野球に没頭していた。小学校4年生の時にサッカーを始め、地元の三和スポーツ少年団に入部した。当時から身長が高くポジションはGKだった。

香芝市立香芝中学校進学後、楢崎は早くも頭角を現し奈良県選抜、関西選抜に選出されるようになる。

高校は名門である奈良育英高校へ進学。本格的にGKとしてトレーニングを積み、3年時にはキャプテンとしてチームを牽引し全国高校サッカー選手権に出場。初戦で強豪の清水商業を下しベスト4に進出。準決勝では北嶋秀朗茶野隆行鈴木和裕、森崎嘉之らを擁する市立船橋に0-3で敗れている。

高校卒業後の1995年、楢崎は横浜フリューゲルスへ入団する。

楢崎正剛のJリーグ入り後

フリューゲルスには森敦彦が正GKを務めていたが、1993年8月に審判への抗議を暴力行為と取られ3ヶ月の長期出場停止処分を受ける。その際に白羽の矢が立ったのが楢崎だった。

同年8月16日2ndステージ第2節ベルマーレ平塚戦でJリーグ初出場を飾る。この試合から正GKを務めた楢崎は3連勝に貢献。高卒新人の正GK抜擢は異例であり、楢崎は全国的に知名度を高めた。

1996年は開幕から6試合連続無失点のJリーグ記録を樹立し、クラブとしても開幕8連勝を果たすなど上位進出に貢献。この年のベストイレブンに選出された。またこの年初めて日本代表に選出されている。

1998年にはフランスワールドカップ日本代表に選出されるが川口能活の控えに回った。この年、所属する横浜フリューゲルスがマリノスとの合併を発表。事実上のクラブ消滅に戸惑うもピッチの上では毅然としてプレーし安定した守備を見せ続けた。フリューゲルスはこの年の天皇杯で躍進を続け悲願の優勝を果たしている。

1999年、山口素弘とともに名古屋グランパスへ移籍。

すぐに正GKに抜擢され第1節アビスパ福岡戦で名古屋でのデビューを飾るとクリーンシートでの勝利に貢献した。

2000年からはキャプテンに就任。楢崎は2013年まで14シーズン連続でキャプテンを務める事になる。同年のシドニーオリンピック代表にも森岡隆三三浦淳宏と共にオーバーエイジ枠で選出され全試合に出場した。

2002年はトルシエ監督により日韓ワールドカップのメンバーに選出。楢崎は正GKとして日本のベスト16入りに貢献。ワールドカップ後にジーコが代表監督に就任した後も正GKとしてプレー。2003年から2004年にかけて7試合連続無失点という新記録を樹立した。

この活躍を受け、2004年にはスペインリーグのアトレティコマドリードからオファーが届くも実現されなかった。

2006年は川口能活が正GKを務めたため出場機会はなかったが、ドイツワールドカップメンバーに選出。

その後も名古屋の絶対的守護神として君臨し、2010年シーズンは、初のJリーグ優勝を経験。楢崎はGK初のJリーグMVPに輝いた。同年の南アフリカワールドカップに選出。川島永嗣が直前で起用されるようになったため控えに回ったがベンチから献身的にチームを支えた。楢崎は4大会連続ワールドカップメンバーに選出されたことになる。また同年9月のグアテマラ戦に出場したことを最後に代表からの引退を表明した。

2012年には史上2人目のJ1通算500試合出場を達成。その後も堅実な守備でリーグ屈指の安定感を見せるも2016年は怪我の影響もあり出場機会が減少。名古屋は勝ちきれない試合が続き初のJ2降格となってしまった。

2017年は初のJ2での戦いとなった。シーズン中盤までは正GKとして起用されるも、シーズン終盤に武田洋平が起用されるようになり控えに回った。

2018年、名古屋はJ1の舞台に返り咲くも、楢崎はプロ入り後初めて公式戦無出場に終わった。このシーズンをもって42歳で現役引退を表明した。

楢崎正剛の引退後と現在

楢崎は引退後、2019年より名古屋グランパスで、Jクラブ初のCSF(クラブスペシャルフェロー)として活動している。

CSFとして楢崎は後進のGKの育成や、名古屋の広報、ホームタウン活動を中心に取り組んでいる。

楢崎正剛が日本サッカー史に残る偉大なGKであることは説明不要であるが、楢崎を語るうえで欠かせないのがもう一人の日本代表守護神である川口能活の存在である。

楢崎と川口は若い頃から常に比較され切磋琢磨してきた唯一無二の存在だ。1998年フランスワールドカップと2006年ドイツワールドカップは川口が、2002年は楢崎がゴールマウスを守った。日本トップクラスのGK2人が1つしかないポジションを10年以上争い続けた。安定感があり守備範囲の広い楢崎正剛と圧倒的な存在感でビックセーブを連発する川口能活。ストロングポイントもプレースタイルも違う2人の偉大なGK争いを観れた事はサポーターとして非常に喜ばしい事であった。

2018年、先に川口能活がユニフォームを脱ぎ、それに続くように楢崎も同じ年にユニフォームを脱いだ。ひとつの時代の終焉を迎えた年となった。

年齢がひとつしか違わず、「ヨっちゃん」「正剛」と呼び合う間柄である2人は今後は指導者として日本サッカーに欠かせない人物となっていくだろう。新たな守護神を誕生させる為に。

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