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岡中勇人の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第80回】

身長185センチ、85キロという恵まれた体格を生かした安定したセービングが持ち味の岡中勇人。

ガンバ大阪では本並健治や都築龍太、大分トリニータでは西川周作と壮絶な正GK争いを演じた。

岡中勇人はPK戦にめっぽう強く、大事な試合では幾度となく見せたファインセーブでチームを救い、1997年には日本代表に選出された。

守護神、岡中勇人に迫る。

岡中勇人のプロ入り前


岡中勇人は1968年に兵庫県に生まれた。

5歳の頃に広島県に転居し、11歳からは福岡県で育つなど幼少期は転校を繰り返した。

1984年、福岡県宗像市の東海大学第五高校(現東海大学付属福岡高校)へ進学。

東海第五は福岡県のサッカー強豪校として知られ、岡中在籍時も3年連続で全国高校サッカー選手権に出場した。

岡中は高校卒業後、東海大学へ進学。

東海大学同学年には元日本代表でフリューゲルスなどで活躍した山口素弘がいる。

1学年下で礒貝洋光澤登正朗飯島寿久後藤太郎らがおり、岡中が大学2年時の1988年には全日本大学サッカー選手権大会で優勝を果たす(東海大学はこの年が同大会へ初出場であり、この年を含めて6年連続で決勝に進出した)。

大学卒業後の1991年、松下電器産業サッカー部(現ガンバ大阪)に加入。

本並健治と熾烈な正GK争いを繰り広げることになる。

日本サッカーリーグには2年間で13試合出場。

1992年、松下電器が母体となりガンバ大阪が誕生。岡中はガンバ大阪とプロ契約を結んだ。

岡中勇人のプロ入り後

1993年、Jリーグ開幕戦から本並健治がガンバ大阪のせいGKとして君臨し岡中はしばらくベンチを温めることとなった。

しかし1993年シーズン途中に本並が、試合中の接触プレーにより腎臓破裂という大怪我を負い、急遽、岡中がゴールマウスを守ることになり、1993年はリーグ戦20試合に出場した。

1994年に本並が戦線復帰すると再びベンチを温める時期が続いたが、1996年シーズン途中に本並からポジションを奪い返し、1997年に本並がヴェルディ川崎に移籍した後も、神懸かりなプレーを見せ、ガンバ大阪の、絶対的守護神としてゴールを守り続けた。

この活躍を受け、1998年には岡田武史、フィリップ・トルシエの両監督から日本代表に招集。
度々声はかかったものの、国際Aマッチの出場の夢は叶わなかった。

その後、ガンバでは都築龍太の台頭により出場機会が激減。

2002年に当時J2の大分トリニータへ移籍する。

大分では正GKとして君臨。絶対的守護神として2002年の大分トリニータJ2優勝に大きく貢献した。

2003年もJ1に昇格した大分トリニータの守護神として活躍。1stステージではガンバ大阪のマグロンのPKを止め、大分のJ1初勝利に貢献。

2ndステージでは残留争いの天王山となった第11節京都パープルサンガ戦で黒部光昭のPKを止め、1-0の勝利に貢献。大分は岡中の活躍もありJ1に残留を決めた。

2004年からは鹿島アントラーズから獲得した高嵜理貴や新人の西川周作の台頭もあり出番が減少。

岡中は2005年シーズンを持ってユニフォームを脱いだ。

岡中勇人の引退後と現在

岡中は引退後、2006年から大分トリニータのU-15・U-12GKコーチを2年間務めた。

2008年、日本文理大学サッカー部監督に就任。4年間指揮を執り、現在は大阪学院大学サッカー部のコーチを務めている。

大分トリニータでの2002年、2003年の岡中勇人の活躍はいまだに大分サポーターの中で語り草となっている。

岡中勇人の引退にあたり、当時のトリニータ代表取締役の溝端氏は岡中のプレーの貢献に感謝の気持ちを伝えた上でこのようなメッセージを残している。

「怪我との戦いの中で、非常に関心したことは、試合に出なくても不平不満を言うことは一度もなかった。そして若手の西川選手、江角選手を舞台に立たせるべく、サポートしてくれていました。そして昨日晴れ晴れした顔で現役を終えたいということでした。私が申し上げたいことは、彼がトリニータで過ごしてくれた四年間は、トリニータの歴史の上でも非常に大きな役割と貢献をしてくれたということ。クラブを代表して、岡中選手に対して感謝の気持ち、そしてこれからは日本を代表する指導者そしてフロントとして大分、日本という大きなフィールドでサッカー界を支えてほしいという話を致しました。本当に岡中選手ありがとう。」

岡中勇人の人間性がよく分かるエピソードだと思う。

今後も躍進が期待される大分トリニータだが、かつて苦しい時代を支えた守護神がいたことを忘れてはならない。

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