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本並健治の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第46回】

正確なキャッチングと自陣のぎりぎりまで飛び出す攻撃的なスタイルでJリーグ創世記に活躍したGK、本並健治。

その身長186㎝、82㎏という恵まれた体格を生かし、守備範囲の広い華麗なゴールキーピングで観客を魅了した。

その端正な顔立ちと流暢な関西弁から「難波のイタリア人」とも呼ばれ、全国的に人気も高く、礒貝洋光や松波正信らとともにガンバ大阪の中心的人物として活躍した。

1993年のJリーグ開幕年には試合中の接触プレーで腎臓を破裂するという大怪我を負うも、カムバックを果たし日本代表にも選出された。

努力の男、本並健治に迫る。

本並健治のプロ入り前


本並は1964年に大阪府枚方市に生まれた。

小学校時代はサッカーではなく野球に明け暮れる毎日を送る。

その後、大阪市立我孫子中学校に進学。

サッカーを始めたのは中学2年の終わり頃と遅かったが、すぐさま頭角を現し大阪選抜メンバーに選出された。

その後、大阪府大阪市にある清風高等学校へ進み、大阪商科大学に進学。

大学では1年からレギュラーで活躍し、全日本大学サッカー選手権大会3連覇、インカレ3連覇、総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント2連覇など輝かしい実績を上げる。

1985年にはユニバーシアード神戸大会に日本代表と選出され、出場を果たした。

大学卒業後の1987年に松下電器(現ガンバ大阪)に入社。

社員として働きながら松下電器サッカー部でプレー。

英プレミアリーグ・フルハムへの留学も経験した。

日本サッカーリーグでは5年間で33試合に出場した。

その後、松下電器サッカー部はガンバ大阪としてスタート。本並もプロ契約し、Jリーガーとしてスタートを切った。

本並健治のプロ入り後

本並はガンバ大阪の正GKとして開幕年から出場。

開幕カードとなったガンバ大阪対浦和レッズ戦では1-0と完封勝利を飾るも、ガンバ大阪は勝ちきれない試合が続き、10チーム中7位で初年度のシーズンを終えた。

本並自身も、7月7日行われたサンフレッチェ戦にて、後半終了直前のコーナーキックの競り合いで田口禎則と激しく接触し腎臓破裂の重傷を負う。

試合は延長開始直後にVゴールを決められ、ガンバが敗れて終了したが、「仮に延長戦が続いていたら助からなかっただろう」と診断されたほどの大怪我だった。

手術では腎臓の4分の1を摘出し、入院生活は3ヶ月続き、その後のシーズンは棒に振ることとなった。

しかし驚異的な回復を見せた本並は懸命なリハビリ生活を乗り越え、再びピッチに戻ってくる。

翌年の1994年には再びガンバ大阪の守護神として43試合に出場。

当時の日本代表監督であるファルカン氏に見出され、日本代表に選出。

5月に行われたキリンカップのフランス戦で代表デビューを飾った。

しかしトンネルでの失点というミスを犯し、試合は1-4で敗れた。

その後、7月のアシックスカップでのガーナ戦2試合に出場するも、いずれも失点を喫してしまい、代表での試合はこの3試合に終わり、以降召集されることはなかった。

ガンバでは1996年シーズン前半こそレギュラーを守るも、後半は岡中勇人に正GKの座を奪われてしまい、リーグ戦出場は16試合に留まる。

そしてヴェルディ川崎からのオファーを受け、1997年シーズン途中にヴェルディへレンタル移籍を果たす。

学生時代も含め、初めて大阪の地を離れることとなったが、同年は11試合に出場。

シーズンオフにはガンバからコーチ就任の打診があるも、現役にこだわりヴェルディに完全移籍を果たす。

1998年は、菊池新吉との正GK争いに敗れ、わずか1試合の出場に留まったが、1999年からはレギュラーを奪い返した。

ヴェルディでは2001年までプレーし、現役を引退をした。

本並健治の引退後と現在

本並は引退後、2003年から指導者として京都産業大学、東海大学付属仰星高等学校のコーチを歴任。

2006年にはJFA指導者ライセンスS級を取得した。

2012年には、なでしこリーグのスペランツァFC大阪高槻の監督に就任。

2016年まで指揮をとり、現在は千葉県立白井高等学校サッカー部の指導など、若い世代の育成にも力を入れている。

選手生命どころか、命の危険まであったあの大怪我から這い上がった本並健治。

再びピッチに戻るだけではなく、その後日本代表まで上り詰めるという偉業を成し遂げるには相当な困難と苦しみがあっただろう。

しかしそれを乗り越える精神力の強さが本並にはあった。

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