2005年は、箕輪義信にとって大きな転機の年となった。
フィールドプレイヤーでは史上最高齢となる29歳での日本代表選出。力強いフィジカルと、セットプレーでの打点の高いヘディングを武器に一躍時の人となった。
2005年10月12日。ウクライナの地で、ジーコ監督により、箕輪義信は57分にピッチに送り出される。初選出とは思えない堂々としたプレーで、屈強な外国人選手と、激しくコンタクトする箕輪義信を見て、翌年のドイツワールドカップへの期待を込めたファンも多かったのではないだろうか。
残念ながら、試合終了間際に微妙な判定でPKを献上。箕輪にとって、これが最初で最後の代表戦となってしまった。
その後、箕輪はグロインペイン症候群、右足腓腹筋腱断裂、そしてアキレス腱の断裂など、幾度となく大きな怪我と闘い、実に4度の手術を乗り越えてでも現役にこだわった。
練習からフットボールと真摯に向き合い、チームメイトからも信頼の厚い選手だった川崎の誇る「壁」。箕輪義信に迫る。
箕輪義信のJリーグ入り前
幼稚園時代からボールを蹴り始め、小学時代は津田山FCというクラブで練習を重ねる。
向丘中学校に進学し、市内の大会で優勝を経験。
高校は、後に神奈川県サッカー協会技術委員長となる大野真氏の薦めで弥栄西高校に進学した。激戦区という事もあり、高校3年間で全国高校サッカー選手権などの全国大会への出場は叶わなかった。
大野監督の勧めもあり、仙台大学へ進学。
1年時からレギュラーを掴むと、 やがて北海道・東北地区選抜、全日本選抜チームに選出される。
絶対的な空中戦の強さと、ボディコンタクトの強さを高く評価された箕輪は、2年時にユニバーシアード日本代表へ追加招集を受ける。初めて世界を体験した箕輪は、オランダと対戦した際に、人生で初めて空中戦で競り負けるという経験をする。後年、箕輪はこの経験に大きな刺激を受けたと語っている。
3年時にはプロ入りを意識するようになった箕輪は、4年時にジュビロ磐田のスカウトを受け入団を決意する。
箕輪義信のJリーグ入り後
1999年、ジュビロ磐田に入団した箕輪は、桑原隆監督に「世界で通用するDFとなってほしい」と大きな期待を受ける。
しかし、ジュビロでは出場機会に恵まれず、出場機会を求めて2000年9月に故郷の川崎フロンターレに移籍。
2000年11月11日の2ndステージ第12節セレッソ大阪戦でJリーグデビューを果たすも、この年はこの1試合のみの出場に留まり、フロンターレはJ2へ降格してしまう。
その後、箕輪は右ストッパーとして起用されるようになり、伊藤宏や寺田周平との連携を熟成させていく。
2001年はレギュラーを掴み、キャリアハイとなるリーグ戦5得点を記録。セットプレーでの強さを発揮した。
その後もフロンターレのレギュラーとして活躍した箕輪は、2004年から就任した関塚監督の下でも主力として活躍。フロンターレは、2位の大宮アルディージャに18ポイントの差をつける圧倒的な強さでJ1に復帰した。
2005年、箕輪はこれまでの経験と当たり負けしないフィジカルの強さが評価され、8月の東アジア選手権での日本代表入りが内定。しかし、突発性難聴を患ったことにより辞退している。
その後、10月に再度召集を受ける。当時29歳での日本代表選出は、フォールドプレーヤーとしては最高齢だったこともあり、大きな注目を集めた。10月12日の親善試合ウクライナ戦で、後半途中から日本代表デビューを飾った。しかし、終了間際、主審の微妙な判定もあり、箕輪はPKを献上し試合に敗れてしまう。
2006年は、ガンバ大阪や鹿島アントラーズを相手にゴールを挙げる活躍を見せ、勝利に貢献。2007年は、ACLにも出場し、決勝トーナメント進出の原動力となるなど、クラブ躍進貢献。しかし2007年末より、グロインペイン症候群に悩まされるようになり、長期離脱を余儀なくされる。
2008年、箕輪が32歳の時に、コンサドーレ札幌へレンタル移籍。
しかし2008年にアキレス腱を断裂。2008年から毎年手術を受け、壮絶なリハビリを送るも状態は良くならなかった。
2011年1月。コンサドーレとの契約が満了し退団。箕輪は現役を引退した。
箕輪義信の引退後と現在
箕輪は現役引退後、中学時代から思い描いていたという公立高校の教師となるべく試験勉強に打ち込んだ。
その後、箕輪は体育教師となり、2012年4月より神奈川県立新城高等学校に赴任。2017年より神奈川県立菅高等学校に赴任している。
箕輪は、現役を引退するまで、最初で最後の代表戦となったウクライナ戦の映像を見ることが出来なかったという。高校教師となり、新たな目線でサッカーと向き合う事になって、初めて見ることができたとインタビューで語っている。
29歳で初めて代表に選出された男は、まさに精魂尽き果てるまで現役を没頭した。たとえ、たった出場試合が1試合だとしても、それが数十分だけだったとしても、箕輪が日の丸の誇りを胸に戦ったことは紛れもない事実だ。
武骨で真面目な男、箕輪の戦いはこれからも続いていく。