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江川重光の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第215回】

Jリーグ創成期の名古屋グランパスエイトで活躍した右サイドバック江川重光。

精力的なオーバーラップで名古屋の攻撃を演出。

ベテランらしい堅実な守備でボランチでもプレーし、落ち着いたゲーム運びを見せた。

1995年にはJFLのヴィッセル神戸へ移籍。主力としてチームを牽引し1997年のJリーグ昇格に貢献した。

江川重光のJリーグ入り前


江川は1966年に三重県四日市市に生まれた。

三重県立四日市中央工業高校に進学。高校の同級生に後にジェフ市原で活躍する越後和男がいた。

高校3年時に全国高校サッカー選手権に出場するも1回戦で愛知県代表の中京大付属高校に0-1で敗れている。

高校卒業後の1984年にJSLの本田技研サッカー部に入部。同期入団に日本代表で活躍した勝矢寿延、後の川崎フロンターレやU23日本代表監督を務めた関塚隆がいた。

江川は本田技研では守備的MFやライトバックとして活躍。本田技研には1987年にGK古川昌明、MF北澤豪、FW黒崎比差支が加入。戦力が整った。

1989年には本田技研のメンバーを中心に構成されたファイブ・ア・サイド・フットボール(現フットサル)の日本代表として世界大会に出場している。

1990-1991シーズンはJSL3位に入る活躍を見せ、江川自身もリーグ戦16試合に出場し1得点を挙げた。

翌年にはトヨタ自動車サッカー部(現名古屋グランパス)へ移籍。浅野哲也ジョルジーニョ沢入重雄小川誠一等と共に活躍するもこのシーズン、トヨタは年間4勝しか挙げられず年間順位最下位に沈んだ。

1992年、トヨタ自動車サッカー部はJリーグ入りの為に名古屋グランパスエイトに改称。江川は名古屋グランパスでJリーガーとなった。

江川重光のJリーグ入り後

1993年5月16日Jリーグ第1節鹿島アントラーズ戦でJリーグ初出場を果たしたが、開幕戦はジーコにハットトリックを許すなど0-5で大敗を喫した。

その後も江川は右サイドバックとして出場を続ける。第10節の浦和レッズ戦ではJリーグ初ゴールを決め3-1での勝利に貢献した。

サントリーシリーズ後半からは守備的MFとしてもプレー。1993シーズンは主力としてプレーするも名古屋グランパスは低迷し年間順位は10チーム中9位に沈んだ。

1994年はリーグ戦12試合の出場に留まり、このシーズンを持って名古屋を退団。

1995年からはJFLのヴィッセル神戸へ移籍した。

神戸では1月の初練習の日に兵庫淡路大震災が起こり練習場が日々変わるなどしたが、永島昭浩松田浩ら江川のようにJリーグチームから移籍してきた選手と共にチームを支えた。

戦力の整った神戸は翌年には25勝5敗という成績でJリーグに昇格。江川は再びJリーグの舞台に戻ることとなった。

1997年、ヴィッセル神戸はJリーグの厳しい洗礼を受け年間順位17チーム中16位で終えた。
江川は背番号6をつけ、ほとんどが途中出場となったがリーグ戦14試合に出場。1stステージ第16節のセレッソ大阪戦ではJ復帰後初ゴールを決めた。

江川は1997年をもって現役を引退。Jリーグ通算50試合出場2得点の成績で現役生活を終えた。

江川重光の引退後と現在

江川は引退後、指導者に転身。2002年から2005年まで地元三重県に本拠地を置く女子サッカーリーグの伊賀フットボールクラブくノ一の監督を務めた。

1995年に始動したヴィッセル神戸。

大震災が起き、復興に向けて動く神戸市民にとってヴィッセル神戸は希望だった。

江川重光らJを知るベテラン選手の入団がなければ早期のJリーグ入りは不可能だっただろう。

あれから24年が立ち、神戸はイニエスタやビジャなどワールドクラスの選手が所属するJ屈指のビッグクラブとなった。

ノエビアスタジアム神戸でサポーターによる神戸賛歌を聞いて心が震える人も多いだろう。

俺達のこの街に お前が生まれたあの日
どんなことがあっても 忘れはしない

共に傷つき 共に立ち上がり
これからもずっと 歩んでゆこう

美しき港町 俺達は守りたい
命ある限り 神戸を愛したい

当時の選手達が神戸の復興とヴィッセル神戸の昇格の為に必死に戦った事実はこの歌と共に、いつまでも語り継がれていく。

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