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小川誠一の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第90回】

名古屋グランパスの左サイドバックとして長きに渡りチームを支えた小川誠一。

激しく相手に食らいつくようなマンマークとボール奪取後のオーバーラップで幾度となく名古屋の攻撃を演出した。

1995年には名古屋グランパスのホーム14連勝に大きく貢献。

タッチライン際を猛然と駆け上がる攻撃型レフトバック、小川誠一に迫る。

小川誠一のプロ入り前


小川誠一は1970年に千葉県千葉市に生まれた。

宮野木小学校入学後、発足したばかりの宮野木サッカークラブでサッカーを始める。

緑が丘中学校卒業後、サッカーの強豪である船橋市立船橋高等学校へ進学。

同学年にはベルマーレ平塚などで活躍した野口幸司、1つ下には後のお笑いコンビペナルティの中川秀樹がいた。

小川は一年生の時からレギュラーとして活躍。

市船の誇る鉄壁のディフェンスの中心人物として活躍した。

小川は背番号5をつけ、持ち前のスピードを生かしたスイーパーとしてチームを支えた。

小川や野口を擁する市船はインターハイ2連覇、高校選手権でも準優勝を果たすなど結果を出した。

高校卒業後、1989年に当時日本サッカーリーグ2部のトヨタ自動車に加入。

高卒ルーキーながら初年度からレギュラーとして活躍しトヨタの1部復帰に貢献した。

1992年、トヨタ自動車が母体となり名古屋グランパスエイトとなり小川はプロ契約を結んだ。

小川誠一のプロ入り後

小川はJリーグ開幕年から名古屋の不動の左サイドバックとして躍動。

Jリーグ初年度はリーグ戦32試合に出場した。

初年度の名古屋はセンターバックに藤川久孝、ガルサ、右サイドバックに江川重光、左サイドバックに小川誠一というラインを敷いて戦ったが、不調に終わり年間成績は10チーム中9位に沈んだ。

名古屋在籍中に第75回(1995年度)第79回(1999年度)で2回の天皇杯優勝を経験しているが、2つの決勝では共に左サイドバックの先発で出場した。

小川は名古屋の左サイドバックとして1997年シーズンまで不動のレギュラーとして活躍。

しかし、鈴木正治や中谷勇介などの加入もあり、1998年シーズンからは徐々に出場機会が減っていき、2000年シーズンをもって現役を引退。

一貫して名古屋グランパスでプレーをし続けた現役生活だった。

小川誠一の引退後と現在

小川は引退後、名古屋グランパスエイトの普及部コーチを務め、2009年よりユースチーム(U-18)監督を務めた。

現在は愛知県稲沢市に本拠地を置くドルフィンフットボールクラブのコーチや、名古屋グランパスOBが指導するサッカースクールDSS(ドリームサッカースクール)のアドバイザーとして活躍している。

小川の話から少し脱線するが、Jリーグは華やかな世界がゆえに平均引退年齢が25歳程。「サッカーで食べていく」というのは容易ではない。

現在、元Jリーガーがユース世代の育成に携わるケースは非常にポピュラーであり、珍しくはない。

Jリーガーのセカンドキャリアとして、指導者の道を選択する選手も多い中、ユース世代の育成をするにしても「元プロ」という肩書きだけでは難しく、それとは別の何かしらの「付加価値」が必要だと感じる。

そんな中、名古屋グランパスのOBだけで形成されるサッカースクールDSSは、コーチ陣に小倉隆史浅野哲也森山泰行、小川誠一、米倉誠飯島寿久など名古屋グランパスの往年のプレーヤーが顔を揃える。

これはグランパスサポーターである父母からすればまさに「通わせたいサッカースクール」であり、ターゲットが明確な為、安定したマーケティングが存在する。

小川がアドバイザーを務めるDSSはまさに夢のサッカースクールなのだと感じる。

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