若かりし頃から「天才ゲームメーカー」と呼ばれた男、山口貴之。
戸塚哲也、菊原志郎に続く読売の高い技術と一瞬の閃きから生まれるゲームメイクは高く評価された。
ヴェルディではラモスの後継者として期待され、各年代日本代表ではエースとして背番号10を背負い司令塔として活躍。
将来の日本代表入りを期待された山口だったが怪我に泣かされ、代表はおろかレギュラーに定着出来ず様々なチームを渡り歩く事になる。
それでも柔らかなボールタッチと持ち味のキープ力を生かし京都パープルサンガやザスパ草津、サガン鳥栖では攻撃の起点として君臨。現役晩年に所属した町田ゼルビアではチーム初のプロ契約選手となり、背番号10を託された。
山口貴之のプロ入り前
山口貴之は1973年に広島県で生まれ、東京都町田市で育った。
少年時代は成瀬サッカークラブに所属。中学校卒業後、日本学園高等学校へ進学。
山口は読売クラブジュニアユースを経て読売クラブユースに所属。抜群のテクニックを持ち、クラブNo.1アタッカーとして活躍。
戸塚哲也、菊原志郎に続く「ヨミウリの天才少年」「天才ゲームメーカー」と呼ばれた。
年代別日本代表にも中心選手として常に選出され大黒柱としてアジアユースを戦った。
1992年、高校卒業後にヴェルディ川崎トップチームに昇格。プロ契約を結ぶ。
山口貴之のプロ入り後
ヴェルディ川崎へ加入した山口だったが入団後、層の厚いMF陣の中に食い込めず出場機会は限られた。1994年、ブラジルのコリチーバへ留学を経験。
帰国後はJFLのブランメル仙台(現ベガルタ仙台)へ加入。アトランタオリンピック予選にも選出されるも、成長著しかった前園真聖、攻撃的MFから攻撃力もあるボランチにプレーの幅を広げつつあった伊東輝悦らとのポジション争いに敗れ、最終予選ではメンバー候補に名前があがらなかった。
1996年、京都パープルサンガへ期限付き移籍。
京都に加入初年度は、司令塔のポジションにヴェルディ時代から知るラモス瑠偉がいた為に山口は主にFWとして出場を続ける。ラモス瑠偉が怪我で不在の場合は中央のポジションを任された。
1997年は主にMFとして出場。卓越した技術と鋭い感覚から生まれるパスを武器に活躍。リーグ戦29試合に出場し6得点を挙げたが京都は低迷し年間順位14位に沈んだ。
1998年はヴェルディへ復帰。ラモス瑠偉、前園真聖、石塚啓次らと激しいポジション争いをしながらもリーグ戦15試合に出場。翌年はラモス瑠偉が引退した事もあり背番号10を託される。
しかし満足のいく出場機会は得られず、1999年7月にヴィッセル神戸へ期限付き移籍となる。
半年間のプレーを経て2000年にガンバ大阪へ完全移籍で加入。若手の二川孝広、稲本潤一らと共にガンバのMFとして活躍した。
2001年シーズン途中に古巣であるヴィッセル神戸へ期限付き移籍。後に完全移籍となる。
2003年はビスマルク、朴康造らと共に攻撃の起点となったがこの年ヴィッセル神戸はリーグワーストとなる63失点を記録。辛うじてJ1残留を決めたが山口にとっても苦しいシーズンとなった。
2004年にJFLのザスパ草津へ移籍。
草津では環境の違いに戸惑いながらも、プロ契約選手として元日本代表の小島伸幸と共にチームを牽引。リーグ戦31試合に出場、11ゴールを決めJ2昇格に貢献。山口はベストイレブンにも選ばれ、翌2005年も29試合に出場するなどの活躍を見せた。
2006年はJ2のサガン鳥栖へ。
FW新居辰基や藤田祥史らと共に攻撃を牽引。2年間に渡り中心選手としてプレーした。
小倉隆史や前園真聖、城彰二ら多くの選手が引退した中、山口は現役を続ける。
2008年、関東1部リーグの町田ゼルビアに移籍。町田ゼルビア史上初のプロとして故郷に戻る。
しかし怪我により満足のいくプレーができずにリーグ戦6試合の出場に留まり同年限りで引退を表明した。
山口貴之の引退後と現在
山口貴之は引退後、ビーチサッカーでのプレーを経て指導者に転身。
2015年よりSC相模原のU-18監督に就任している。
早熟の天才という言葉がしっくりくるのかもしれないが、山口貴之は数多くのチームを渡り歩きながらも17年も現役を続ける息の長い選手となった。
それはもはや天才ではなく努力の結果なのだと思う。
サッカーの神様、ジーコは過去にこのような名言を残している。
「サッカーの技術は自転車に乗るのと同じ。一度覚えれば忘れないということだ」
天才とまで呼ばれた山口貴之の技術は錆びることはない。アンダー世代から山口の卓越した技術に触れることの出来る選手達は学べる事が多いと感じる。