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戸塚哲也の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第158回】

読売天才少年の系譜はこの男から始まった。

僅か18歳で日本サッカーリーグデビューを飾ると、日本サッカーリーグで2度の得点王を獲得し、3度ベストイレブンに輝いた。

日本屈指のボールキープ力と変幻自在なドリブルを武器に18歳の頃には日本代表に選出。

自身のプレースタイルとチームの戦術がマッチしないからという個人的理由で日本代表を辞退するという伝説を残した戸塚哲也。

ラモス瑠偉や与那城ジョージという往年の名プレーヤーとのコンビネーションも絶妙で、読売クラブ黄金期を支えたFW戸塚哲也に迫る。

戸塚哲也のJリーグ入り前


戸塚は1961年に東京都世田谷区に生まれた。

二子玉川小学校の時にサッカーを始める。同級生に読売や日本代表で共にプレーをする事になる都並敏史がいた。

戸塚はサッカーの神様”ペレ”に憧れ、とにかく”プロサッカー選手”になりたくて、日々の練習に励んだという。

程なくして読売サッカークラブの下部組織に入団。

世田谷工業高校卒業後、1979年に読売サッカークラブと契約を結ぶ。

僅か18歳と1日で日本サッカーリーグデビューを飾ると初年度から出場の機会を得た。この頃は広い視野と卓越した技術を生かして攻撃的MFとしてプレーしていた。

19歳の時にサッカー留学として単身スペインに渡りバレンシアCFの練習に参加。

当時、プロリーグのない日本から海外にサッカー留学に行く選手は稀な存在であり、サッカー専門誌は戸塚哲也の特集を組んだ程だった。

またこの時、日本代表に初選出され、12月22日の香港戦でフル代表デビューを飾った。

その後も日本代表で背番号10番を背負う事もあったが、1983年自らの意思で代表を辞退。

代表を辞退した理由は、読売でプレーしていたラモス瑠偉や与那城ジョージといった独特のリズムをもちレベルの高いプレーヤーと共存するにはクラブでの練習に専念する必要があるというものだった。

この辞退は当時の日本代表にとって前例がなく、問題視した協会からはそれ以降数年間代表へ招集される事は無かったが、戸塚哲也の日本代表復帰を望む声は絶える事はなかった。

入団3年目の1981年にはアシストランキング6位に入り、同クラブの与那城ジョージ、加藤久と共にベストイレブンに輝く。

1984年にはFWにコンバートされ、日本サッカーリーグ得点王に輝く。

1985年に行われた1986 FIFAワールドカップ・アジア予選では森孝慈監督の強い要望もあり、日本へ帰化したジョージ与那城と共に最終予選東京・ソウルでの韓国戦2試合に出場した。

1990年には2度目のリーグ得点王を獲得。読売クラブ黄金期を支え、数々のタイトル獲得に貢献した。

1992年、Jリーグ入りを前に読売クラブはヴェルディ川崎に改称。戸塚はベテランの域に達していたが、ヴェルディ川崎の選手としてJリーガーとなる。

戸塚哲也のJリーグ入り後

ヴェルディ川崎では三浦知良、武田修宏という不動の2トップに加え、藤吉信次阿部良則ら若手の台頭もあり出番は限られた。

1993年Jリーグ開幕試合からベンチ入りは続けるもなかなか試合出場の機会はなく、第7節横浜フリューゲルス戦で後半から途中出場しJリーグ初出場を果たす。

この試合は1-1のままPK戦にもつれ込んだが、5番目のキッカーとして登場した戸塚哲也はPKを確実に沈め、勝利に貢献した。

続く第8節の名古屋グランパスエイト戦でも後半から途中出場を果たしJリーグ初得点をマークした。

このシーズンは主に後半からの出場でリーグ戦10試合に出場した。

翌年の1994年も出場機会は限られ、リーグ戦7試合の出場に留まると翌年にはJFLの柏レイソルへ移籍。

柏レイソルでは元ブラジル代表のカレカと共に活躍し、17試合に出場し4ゴールを決めて柏レイソルのJリーグ昇格に貢献したがこの年限りでプロリーグの舞台から戸塚は去った。

1996年に栃木県社会人サッカーリーグのワールドブリッツ小山に移籍。監督兼任でプレー。
1997年にはビーチサッカーの日本代表として、ポルトガルで行われた世界選手権世界大会に出場した。

戸塚哲也の引退後と現在

戸塚哲也は引退後、サッカー指導者として活躍し2006年2月からFC岐阜監督に就任。

東海社会人サッカーリーグ1部で優勝、全国地域リーグ決勝大会で2位に入り、ホンダロックSCとの入れ替え戦を制してJFLに昇格した。

その後はFC Mi-O びわこ、FC町田ゼルビア、SC相模原の監督を歴任。

その後はサッカー指導者の傍ら、岐阜県瑞穂市にタンメン店「湯麺戸塚(たんめんとつか)」をオープンさせるなど実業家としても活動しており、新たな道でも注目を集めている。

戸塚哲也は可能性について語られる事が多い。

もしあの時代表を辞退しなければもっと早くから日本代表の中心選手となり、1986メキシコワールドカップにも出場出来たのではないか。

生まれてくる時代が少し遅ければJリーグでピークを迎えて活躍出来たのではないか・・・など想像させてくれるだけで楽しませてくれる数少ない選手である。

全ては可能性ではあるのだが、それだけ戸塚哲也という選手は才能に溢れており、日本にはいない天才肌の選手であった事は事実だ。

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