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米山篤志の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第424回】

クレバーな守備と正確なフィードでゲームを司る最終ラインの司令塔・米山篤志。

的確なコーチングと正確なラインコントロールで守備陣を牽引した。

2000年にはトルシエ監督から招集され、日本代表としてAFCアジアカップ2000に出場。

守備だけでなく、精度の高いプレースキックや空中戦の強さを見せ、DFながら7年連続ゴールを挙げるなど得点能力も高い。

米山篤志のJリーグ入り前


米山は1976年に栃木県宇都宮市に生まれた。

宇都宮市立陽光小学校入学後にサッカーを始め、宇都宮市立陽南中学校サッカー部で活躍。
中学時代は全国大会へ出場を果たした。

全国大会での活躍を受け、桐蔭学園高校のコーチから誘われ、同校へ進学。
同学年に一木太郎(ヴェルディ川崎)、盛田剛平(浦和レッズ)、1学年上に森岡隆三(鹿島アントラーズ)、三上和良(ヴィッセル神戸)、廣長優志(ヴェルディ川崎)、橋本研一(鹿島アントラーズ)らがいる。

入学当初は攻撃的なMFとしてプレーし、1年生ながら背番号10を背負ってプレー。
高校1年次に選手権に出場するも、2回戦で山城にPK戦の末に敗れている。

高校2年次には背番号12を背負い、中盤やDFとしてプレー。
選手権は神奈川県予選準決勝で桐光学園に敗れている。

また、米山は1993 年に開催されたFIFA U-17世界選手権(現 FIFA U-17 ワールドカップ)に出場するU-17日本代表に選出された。、

高校卒業後、駒沢大学へ進学。1学年上に三上和良(ヴィッセル神戸)、同学年に盛田剛平(浦和レッズ)、大石篤人(ヴァンフォーレ甲府)、1学年下に小林慶行(東京ヴェルディ)らがいる。

米山は大学1年次からDFでレギュラーを掴むと、関東大学選手権、総理大臣杯、全日本大学選手権で優勝を果たす。

大学3年次には関東大学選手権、総理大臣杯、全日本大学選手権で優勝を果たし、ユニバーシアード日本代表に選出。
関東大学ではリーグベスト11に選出された。

この活躍を受け、大学在学中にヴェルディ川崎へ入団する。

米山篤志のJリーグ入り後

1998年8月29日2ndステージ第2節横浜マリノス戦でJリーグデビューを果たすと、そのままレギュラーを掴む。
柱谷哲二、ラモス瑠偉、 北澤豪、三浦知良らヴェルディのスター選手とともにピッチに立った。
このシーズンは第8節ヴィッセル神戸戦をのぞいて2ndステージ全試合に出場した。

2000年にはキャプテンに就任。
日本代表にも選出され、2月26日のAFCアジアカップ2000 (予選) のブルネイ戦で代表デビュー。
後半頭から松田直樹と交代でピッチに立つと、中澤佑二、服部年宏とともに3バックを形成。9-0での大勝に貢献した。
その後もヴェルディの最終ラインをクレバーな守備で支えるも、日本代表のDF陣の層は厚く、米山にとってこの試合が最初で最後の代表戦となった。

2004年には8年ぶりとなるヴェルディの天皇杯優勝に大きく貢献。

DFだけでなく、精度の高いFKでも存在感を示してきた米山だが、2005年にヴェルディはJ2に降格。
この影響を受け、米山は8年間在籍したチームを退団することになった。

2006年、川崎フロンターレに移籍。
しかし出場機会は少なく1年で退団となった。

2007年はトライアウトへ参加し、名古屋グランパスへ加入。
的確なコーチングと正確なフィードで攻守のキーマンとなり2年間でリーグ戦39試合に出場した。

2009年は地元の栃木SCへ移籍。
松田浩監督のもとで、ボランチとしてチームを支え、開幕戦から出場を続けた。

2010年、契約満了で栃木SCを退団。現役続行を希望するも所属チームが決まらず現役引退を表明した。

米山篤志の引退後と現在

米山は引退後、指導者に転身。

2012年に前監督のアマラオから引き継ぐ形で東京都社会人リーグの東京23FCの監督に就任した。

その後、名古屋グランパス、川崎フロンターレ、FC町田ゼルビアでコーチを経験。

2023年からJ3のカマタマーレ讃岐の監督に就任した。

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