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鬼木達の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第425回】

トリッキーなドリブルと前への推進力が持ち味の鬼木達。

名門・市船で右サイドを主戦場に活躍すると、Jリーグ開幕元年に鹿島アントラーズへ入団。

1998年に川崎フロンターレへ移籍すると、主力として活躍し、Jリーグ昇格に大きく貢献し、自身もベスト11に選出された。

鬼木達のJリーグ入り前


鬼木達は1974年に千葉県船橋市に生まれた。

船橋市立習志野台第二小学校に入学後にサッカーを始め、小学校6年生の時に全国少年サッカー大会に出場し3位に入った。
この大会で鬼木は優秀選手に選出されている。

船橋市立坪井中学校に進学後、サッカー部に入るが顧問の先生がサッカー未経験者であり、鬼木の学年は11人しかいなかった。
大会に参加できず球拾いをする日々に嫌気が差し、サッカー部を退部するが、小学校時代の恩師や仲間の協力もありサッカー部に復帰する。
中学3年生になった鬼木は、監督兼プレーヤーとしてチームをまとめるようになった。

中学校卒業後、名門・市立船橋高校へ進学。1学年上に高田昌明(横浜フリューゲルス)、1学年下に秋葉忠宏(ジェフユナイテッド市原)2学年下に森崎嘉之(ジェフユナイテッド市原)、鈴木和裕(ジェフユナイテッド市原)、茶野隆行(ジェフユナイテッド市原)がいた。

高校2年次から背番号7を背負い、主に右サイドハーフとしてプレー。
インターハイでベスト4に入り、選手権では順当に勝ち進み、準々決勝の室蘭大谷戦ではゴールを決め2-1での勝利に貢献。
準決勝では松波正信のいる帝京高校と対戦するも、惜しくも1-2で敗れている。

高校3年次にはインターハイで準優勝を飾るも、選手権では準々決勝で東海大浦安にPK戦の末に敗れている。

高校卒業後は大学進学も考えたが、鹿島アントラーズから誘いを受け、入団を決意する。

鬼木達のJリーグ入り後

1993年、鹿島アントラーズに入団した鬼木だったが入団後2年間は出場機会がなく、サテライトでの調整が続いた。

1995年11月15日NICOSシリーズ第23節サンフレッチェ広島戦で、橋本研一と交代でJリーグデビューを飾る。
この試合で2-1での勝利に貢献した鬼木は、残りのシーズン全試合に出場。
まだ固定番号制ではなかったこともあり、第25節ベルマーレ平塚戦では背番号10を背負って出場した。

1996年にはリーグ戦11試合に出場するも、鹿島のオフェンス陣には増田忠俊、マジーニョ、ロドリゴ、真中靖夫らがおりレギュラー獲得は出来なかった。

1997年もリーグ戦5試合の出場に終わると、1998年にはJFLの川崎フロンターレへレンタル移籍。
ここで鬼木は得意のドリブルを武器にアタッカーとしてレギュラーを獲得。
フロンターレのJリーグ昇格に貢献し、長橋康弘、ヴァルディネイ、中西哲生とともにこの年のベスト11に選出された。

1999年は鹿島アントラーズに復帰。
この年は右サイドバックを務め、第12節アビスパ福岡戦ではJリーグ初ゴールを決める。
しかしシーズン中盤に日本代表の右サイドバックであった名良橋晃が故障から復帰するとベンチに回った。
中盤も入団2年目の小笠原満男中田浩二、本山雅志が台頭し、中央にも絶対的司令塔であるビスマルクがいたため、出場機会は少なかった。
鹿島での成績は在籍5年でリーグ戦20試合出場1得点だった。

2000年、川崎フロンターレへ移籍。
鹿島から奥野僚右鈴木隆行、マジーニョがともに移籍した。
1stステージは16チーム中15位で終えると、2ndステージでも巻き返すとこはできず、J2に降格した。

2001年も川崎に在籍。
エジミウソン、今野章らと中盤の不動のレギュラーとして活躍。
この年はキャリアハイとなるリーグ戦40試合に出場を果たした。

2003年には中央大学から中村憲剛が加入。
このシーズン、川崎はリーグ最多の88得点を挙げ昇格争いを演じるも、最終的には3位でシーズンを終えた。

2004年、左足関節遊離体により手術を受け長期離脱をするも、ピッチ外でもチームを支え、川崎のJ1昇格に貢献した。

2005年はリーグ戦1試合、2006年は出場はなくこの年限りで現役を引退した。

鬼木達の引退後と現在

鬼木は引退後、川崎フロンターレで指導者としてのキャリアをスタート。

2017年に川崎の監督に就任すると、Jリーグで4度、天皇杯、Jリーグカップで1度ずつチャンピオンになるなど輝かしい成績を残している。

活躍した選手が海外へ移籍するという苦しい流れが続くが、これまで獲得したタイトルは6つ。

悲願のアジアタイトルを含む7つ目のタイトルの獲得に向けて、名将は歩みを止めない。

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