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山根巌の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第438回】

プレッシングサッカーの申し子・山根巌。

サンフレッチェ広島時代はスピードを生かしたFWや攻撃的MFとして活躍。

その後、大分に移籍し石崎信弘監督に見いだされてボランチに転向すると、その才能が開花した。

優れたボール奪取能力と視野の広さを生かしたプレーで中盤の底に君臨し、大分や川崎、柏でJ1昇格の原動力となった。

山根巌のJリーグ入り前


山根は1976年に広島県広島市に生まれた。

広島市立尾長小学校入学後、5年生の時に、いとこの影響と身体を鍛えるためにサッカーを始める。

広島市立二葉中学校入学後、サッカー部に所属。中学2年次に全国大会に出場し県内から注目を集めた。

中学卒業後、広島県立皆実高校へ推薦入試で進学。
1学年上に下田崇(サンフレッチェ広島)、1学年下に金本圭太(サンフレッチェ広島)、梅田直哉(サンフレッチェ広島)がいる。

高校時代は選手権への出場は叶わなかったが、高校3年次に富山県で開催されたインターハイへ出場。
準決勝まで進出するも、静岡代表の清水商業に0-4で敗れた。

また高校3年次には広島県選抜に選出され国体に出場。また西日本選抜にも選出されている。

高校卒業後、地元のサンフレッチェ広島へ入団する。
同期入団に久保竜彦大木勉吉村光示、西田吉洋、萩野英明、水田月満、玉田真人がいる。

山根巌のJリーグ入り後

入団後しばらくはサテライトでの調整が続くと思われたが、1995年6月17日サントリーシリーズ第17節横浜フリューゲルス戦で背番号10を背負い、Jリーグ初出場を果たす。
ビム・ヤンセン監督の元でスピードを生かしたプレーが評価されての抜擢だった。

入団当時のサンフレッチェのFWにはエース高木琢也、韓国代表の盧廷潤、元オランダ代表のハウストラファンルーン、同期入団の久保竜彦大木勉などがいたが、山根は高卒ルーキーながらリーグ戦6試合に出場した。

しかし飛躍が期待された2年目は出場機会がなく、サテライトでの調整が続いた。

1997年、エディ・トムソンが監督に就任すると、出場機会を増やす。
1997年8月20日2ndステージ第6節ヴェルディ川崎戦でJリーグ初ゴールを決めると、続く第7節京都パープルサンガ戦でも2戦連発のゴールを決め、勝利に貢献した。

1998年は開幕戦の柏レイソル戦から先発出場を続けるも、次第に出場機会が減少し、シーズン途中にJFLの大分へ、金本圭太とともにレンタル移籍。

1999年にJ2に昇格した大分では、石崎信弘監督のもとでスピードを生かしたインターセプトに磨きをかけ、ボランチとして活躍。

2000年はシジクレイとのダブルボランチでチームを支え、リーグ戦35試合に出場し4ゴールをマークし、翌年は完全移籍を果たした。

2003年には石崎監督が率いるJ2川崎フロンターレへ移籍。
加入1年目は不動のボランチとして活躍するが、この年をもって石崎が辞任すると2004年以降は出場機会が激減した。

2005年で川崎から戦力外通告を受け、退団。山根は引退を決意するも、2005年のシーズンオフに恩師である石崎が柏レイソルの監督に就任すると、石崎から誘われ、引退を撤回し柏レイソルへ入団する。

2006年は石崎監督の提唱する「中盤での強力なプレスサッカー」において、山根は不可欠な存在となった。
山根はシーズンを通して活躍し、柏レイソルのJ1昇格に貢献した。

2007年以降も安定したプレーを見せたが、肉離れなどによる故障のため、出場機会は減少した。

2010年はJFLのツエーゲン金沢へ移籍。
広島時代のコーチだった上野展裕が監督を務め、広島での同期入団である久保竜彦と再度プレーをともにすることになった。
2011年はコーチ兼任プレーヤーとしてチームを支える。シーズン中盤に首位に立つ躍進をみせるが、最終成績は7位に終わり、この年をもって山根は現役を引退した。

山根巌の引退後と現在

山根は現役を引退後、指導者として活躍。

スクールコーチをや、レノファ山口トップチームのコーチを経て、2019年にはカターレ富山のヘッドコーチに就任している。

息子の山根永遠はJリーガーとして活躍。
ツエーゲン金沢や水戸ホーリーホック、ザスパクサツ群馬を経て、2022年からは横浜FCに所属している。

山根巌の現役時代は、石崎信弘監督とともに歩んだと言っても過言ではない。

石崎が率いた大分、川崎、柏でともにプレーし、組織的にボールを奪いに行く石崎信弘監督の戦術を体現したのが山根巌であった。

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