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ファネンブルグの現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第143回】

ジュビロ磐田創世記の外国人といえばワールドカップ得点王のスキラッチや現役ブラジル代表キャプテンであったドゥンガを思い浮かべる人も多いと思うがこの男の存在を忘れてはならない。

ジェラルド・ファネンブルグ。

アヤックスやPSVに所属しオランダトップリーグで5度のリーグ優勝や1度のUEFAチャンピオンズカップ(1987-88シーズン)優勝などタイトル獲得に貢献したファネンブルグはキャリア全盛期の29歳の時に当時JFLのジュビロ磐田へ入団。

オランダ代表として42試合に出場したキャリアを持つファネンブルグの加入は間違いなくジュビロ磐田にとって大きな相乗効果を生み出した。

後年、日本代表の背番号10を背負うことになる名波浩は「ファネンブルグのアウトにカットするロングボールは天性のものであった。」と語っている。

ファネンブルグのJリーグ入り前


ファネンブルグは1964年にオランダのユトレヒトに生まれた。

アヤックスのユースでサッカーを学び、1980-1981シーズンに僅か16歳でトップリーグデビューを果たす。

このシーズンはルーキーイヤーながらリーグ戦11試合に出場し3得点を挙げた。

翌年の1981-1982シーズンは13得点を挙げアヤックスのレギュラーに定着すると3年目には17得点を挙げ、アヤックスの連覇に大きく貢献。

ファネンブルグは若くしてオランダを代表するトッププレーヤーの仲間入りを果たし、オランダ代表に選出され、1982年4月14日のギリシャ戦において代表デビューを飾った。

その後もアヤックスの中心選手として君臨し、ファン・バステン、ライカールトらと躍動しアヤックスで通算3度のリーグ優勝を経験した。

1986-1987シーズンに同じオランダ1部リーグのPSVへ移籍。

ルート・フリットやクーマンと共にPSVの攻撃の核となりリーグ優勝を果たす。

翌年の1987-1988シーズンも圧倒的な強さでオランダリーグを制覇すると、チャンピオンズカップでも各国の強豪を次々と倒し、決勝でポルトガルのベンフィカを破りヨーロッパチャンピオンに輝いた。

1988-1989シーズンにブラジル代表のロマーリオがPSVに加入。

ロマーリオは4シーズン連続でオランダリーグ得点王に輝くが、ファネンブルグを起点とした多くのゴールが生まれた。

1990年のイタリアワールドカップにもオランダ代表として出場した。

1992-1993年シーズン終了後、選手として全盛期を迎えていたファネンブルグの元へ多くのオファーが舞い込む。

セリエAのASローマが最有力と見られたが直前になって入団が白紙となる。

その頃、日本にいるオランダ人監督ハンス・オフトからJFLのジュビロ磐田加入のオファーを受ける。

所属するPSVは今後もファネンブルグを大黒柱として考えていたが、ファネンブルグは日本の2部リーグ相当に所属するヤマハ(現ジュビロ磐田)への移籍を決断。

この移籍には多くのオランダ人が驚いたという。

1993年、ヤマハに加入したファネンブルグはすぐに日本のサッカーにフィットし、卓越したテクニックで格の違いを見せつけた。

ヤマハはジュビロ磐田へ改称し、1994年に悲願のJリーグ入りを果たす。

ファネンブルグのJリーグ入り後

1994年3月12日サントリーシリーズ第1節鹿島アントラーズ戦で背番号10を背負い、Jリーグデビューを果たすと、ファネンブルグはジュビロ磐田の中心選手として攻撃を牽引した。

ファネンブルグが繰り出すイマジネーション溢れる変幻自在なパスは中山雅史やスキラッチらの得点を数多くアシストしたが、ファネンブルグもシーズンを通して8得点を挙げた。
1995年は名波浩、藤田俊哉、服部年宏ら後年のジュビロ磐田を支える選手と中盤を形成。

名波浩はそれまでロングボールはインステップかインフロントで蹴っていたが、ファネンブルグからアウトにかけて曲げるロングボールの蹴り方を学んだという。

1995シーズンも大黒柱として期待されたが夏に膝靭帯損傷の大怪我を負い、欠場を余儀なくされたが、2ndステージ終盤に復帰し広い視野と長短の正確なパスを生かしリベロとしてプレーした。

1996年シーズンもリベロやセンターハーフとしてプレー。リーグ戦22試合に出場し5得点を挙げるもこの年限りでジュビロ磐田を退団。

Jリーグではリーグ戦86試合に出場し14得点を挙げた。

その後、オランダのユトレヒトに移籍する。

翌1997-1998シーズンにはフランスのカンヌに移籍。

フランスではかつての輝きを取り戻し、素晴らしいパフォーマンスを披露。

1998-1999シーズンにはドイツブンデスリーガのTSV1860ミュンヘンへ移籍。

ここでファネンブルグは日本での経験を生かし、リベロを任せられることになる。
ファネンブルグはここで素晴らしいパフォーマンスを披露し高い評価を得たが、翌シーズンは故障のためあまり試合に出場する事ができず、このシーズンを最後に現役生活に別れを告げた。

ファネンブルグの引退後と現在

ファネンブルグは引退後、PSVユースの監督、かつて在籍した1860ミュンヘンの監督を務めた。

その後はPSVの育成に携わるなど、オランダで指導者の道を歩んでいる。

ファネンブルグは現役時代、ヨーロッパで数多くのタイトルを獲得した。

Jリーグのジュビロ磐田での活躍後、ヨーロッパに戻ってもトップリーグで高いパフォーマンスを見せたファネンブルグ。

ファネンブルグが日本を離れた後、共にプレーした若かりし頃の名波浩、藤田俊哉、服部年宏などが日本を代表する選手となりジュビロ磐田は黄金期に入っていく。

ファネンブルグがもたらした功績は残した記録以上にあまりにも大きい。

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