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大野敏隆の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第74回】

広い視野と高い技術で両サイドに決定なパスを散らすことができる。

司令塔タイプのMF、大野敏隆。

1997年のワールドユースでは中村俊輔とU20日本代表のW司令塔として君臨した。

そのダイナミックなプレーと繊細なボールタッチから大野敏隆は「天才肌の司令塔」とよばれた。

大野敏隆のプロ入り前


大野は1978年に埼玉県川口市に生まれた。

幼少期に群馬県に引っ越し、そこでサッカーを始める。

玉村町立中央小学校に通いながら前橋市の前橋ジュニアに所属し、基礎を学んだ。

南橘中学校へ進学後、中学1年次から背番号10を背負い、群馬県中学校総体で2年連続優勝。

全国大会では中学2年でベスト8になると、翌3年では準優勝を果たす。大野は得点王に輝く活躍を見せた。

高校はサッカーの強豪である前橋商業高校へ進学。

高校2年次に第74回全国高校サッカー選手権に出場。

1回戦で元日本代表の藤本主税擁する徳島市立高校を破るも2回戦で元日本代表の南雄太擁する静岡学園に敗れた。

高校を卒業後、いくつかのスカウトの中から柏レイソルを選択。

1997年、高校卒業後に大野敏隆は柏レイソルへ入団する。

大野敏隆のプロ入り後

入団1年目は7試合の出場に留まったものの、U20日本代表に選出される。

DFには宮本恒靖戸田和幸、MFには中村俊輔、明神智和、廣山望、FWには柳沢敦、永井雄一郎、福田健二など多くの有力選手が選出されたが、大野は司令塔としてスペイン戦やパラグアイ線など全5試合に出場。コスタリカ戦では先制ゴールを含む2ゴールを挙げて日本のベスト8進出に貢献した。

柏レイソルでは2年目にレギュラーを獲得。
28試合に出場し2得点を挙げた。

3年目からは背番号10を与えられ、卓越したテクニックとパスワークで、チームの主力選手として活躍。

柏が初タイトルを獲得した1999年のヤマザキナビスコカップ決勝の鹿島アントラーズ戦では鮮やかな先制ゴールをあげた。

しかし2003年シーズン途中に京都サンガ、2004年には名古屋グランパスへとレンタル移籍を繰り返す。

2004年シーズン途中には柏レイソルに復帰するも2005年に柏レイソルはJ2へ降格。

2006年に大野は東京ヴェルディへ完全移籍した。

ラモス瑠偉監督の元、大野はキャプテンとしてチームを引っ張り2007年に来季のJ1昇格を果たす。

しかし2008年は椎間板ヘルニアの影響もあり出場機会は減少。

この年限りでユニフォームを抜いだ。

大野敏隆の引退後と現在

大野は引退後、複数のサッカースクールやサッカーチームにてコーチを歴任し、現在は自身のサッカーチームなどで子供たちの指導にあたっている。

柏レイソルの指揮官であり元日本代表監督の西野努氏は大野敏隆について、「才能は中村俊輔と同等クラスのものがある」と語ったことがある。

大野敏隆は流動的に機能させることができる司令塔だが、パスだけではなく、ドリブルもキープ力もシュートの精度も高い。

もし大野に怪我がなく、若いうちに海外に行っていたら日の丸をつけたユニフォームを着てピッチの上で躍動していたかもしれない。

そう感じさせるポテンシャルの高さが大野にはあった。

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