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トリビソンノの現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第142回】

1992年の8月にアルゼンチンの名門ロサリオ・セントラルから浦和レッズに加入した大型センターバック、トリビソンノ。

空中戦の強さや50メートル級の強力なロングシュートを打てるキック力を武器に創世記の浦和レッズのレギュラーとして活躍した。

しかしトリビソンノ在籍時の浦和レッズはサントリーシリーズが失点ワースト2位、NICOSシリーズはワースト1位と低迷。

トリビソンノは守備の立て直しをDFリーダーとして期待されたが、その期待に応える事は出きなかった。

気性の荒さもありラフプレーが多かったが、金髪の長髪を靡かせて闘志溢れるスタイルでピッチで戦ったトリビソンノを愛するオールドファンは多い。

トリビソンノのJリーグ入り前


トリビソンノは1966年にアルゼンチンに生まれた。

1987年にアルゼンチンのCAロサリオ・セントラルでプロキャリアをスタート。

1988年3月5日、エスタディオ・ヒガンテ・デ・アロシートで行われたインデペンディエンテ戦でプロデビューを飾る。

ロサリオセントラルではアンヘル・トゥリオ・ソフ監督の元、横浜マリノスでプレーしたビスコンティやラツィオやミランで活躍したホセ・チャモらとプレーした。

ロサリオには6シーズン在籍し、リーグ戦109試合に出場し2得点を挙げた。

1992年8月、Jリーグ開幕の前年に行われたナビスコカップ直前に来日し浦和レッズとプロ契約を結ぶ。

この年行われたナビスコカップでは4試合に出場し、浦和レッズは10チーム中5位の成績を収めた。

トリビソンノのJリーグ入り後

1993年5月16日に開催されたガンバ大阪とのJリーグ開幕戦で背番号3をつけてJリーグデビューを飾る。

トリビソンノは当たり負けしない体躯や空中戦の強さを武器に浦和の3バックの要として期待された。

前年のナビスコカップで浦和は5位ながら上位チームと接戦を演じた事もあり上位進出が期待された。

しかし上位進出の鍵を握る助っ人外国人のアルゼンチンFWフェレイラ、MFモラレスといった外国人選手が不調に終わり、そこから歯車が噛み合わず勝ちきれない試合が続いた。

トリビソンノは孤軍奮闘の如く、チームメイトを鼓舞しながら闘争心を剥き出しに戦ったが、ラフプレーが目立ち警告を受けるシーンが多くあった。

第5節のヴェルディ川崎戦で初めてイエローカードを貰うと、リーグ戦のみで9枚のイエローカードを貰ってしまう。

浦和レッズは攻撃陣の立て直しの為にシーズン途中に元ドイツ代表のルンメニゲを獲得。

トリビソンノは外国人枠の都合でNICOSシリーズの終盤から出番を失った。

結局浦和は最下位で1993年シーズンを終え、トリビソンノは26試合に出場したもののこの年限りで退団となった。

トリビソンノは浦和を退団後、アルゼンチンに帰国。

CAダグラスヘイグ、アトレティコ・トゥクマン、クラブ・オリンポなど国内チームを渡り歩き1998-1999シーズンを持って現役を退いた。

トリビソンノの引退後と現在

トリビソンノは引退後、古巣ロサリオ・セントラルの下部組織のコーチをしている。

トリビソンノの教え子にはアルゼンチンを代表する選手の一人ディ・マリア(パリ・サンジェルマン)がいる。

2017年には25年ぶりに来日。『さいたまサッカーフェスタ2017』の浦和レッズと大宮アルディージャのOB戦で、その試合のスペシャルゲストとして日本のサポーターに迎えられた。

苦しかった時代を知る浦和レッズサポーターから大きな拍手で迎えられ、トリビソンノは現役時代とは違う和かな表情を見せた。

トレードマークだった金色の長髪は今はスキンヘッドに変わっていたが、日本を愛する気持ちは変わっていない。

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