スタンドまで聞こえる大きな声でのコーチングで有名な土田尚史。
身長187センチという恵まれた体格を生かした守備で長きに渡って浦和レッズの守護神として君臨した。
若手時代の1988年から1989にかけては日本代表にも選出されるなどそのポテンシャルは早くから評価されていた。
土田は浦和レッズ一筋でプレーし、田北雄気と壮絶な正GK争いを繰り広げた事でも知られる。
GK土田尚史は闘志溢れるプレーで多くの浦和サポーターに愛された。
土田尚史のプロ入り前
土田がサッカーを始めたのはかなり遅く、岡山理科大付属高校からだ。
中学までは剣道部に所属していたが、進学先の高校に剣道部がなかった為サッカー部に入部してGKを始めた。
岡山県は作陽高校が全国高校サッカー選手権の常連であり、土田の出場は叶わなかった。
高校卒業後の1985年、大阪経済大学へ進学。
土田の2学年下には後の日本代表となる長谷川祥之(鹿島アントラーズ)がいる。
大学在学中の1988年には横山謙三監督率いるアジアカップ日本代表Bに選出される。
アジアカップでは背番号1を与えられるも、イラン戦、韓国戦、UAE戦は真田雅則(清水エスパルス)がゴールマウスを守った。
カタール戦で先発出場を果たした土田だったが、後半に3失点を喫し日本は0-3で敗れている。
大学卒業後、土田は三菱重工業サッカー部に入団。
入団3年目の1991-1992シーズンから出場機会を掴み始める。
1992年、三菱は浦和レッズへ改称。土田は浦和レッズとプロ契約を結んだ。
土田尚史のプロ入り後
1993年5月16日のJリーグ開幕第1節浦和レッズ対ガンバ大阪戦でスタメン出場を果たす。
以降、土田は守護神として浦和のゴールを守るが浦和は1stステージで僅か3勝しか出来ず最下位に沈んだ。
守備陣の立て直しを考えた浦和は1993年にチェコスロバキアからGKミロを獲得。
いっときはミロに正GKの座を明け渡すが、状況は改善せず土田が正GKに復帰した。
1994年、1995年はシーズンを通して正GKとして起用される。
しかし1996年に故障によりライバルであったGK田北雄気に正GKの座を奪われる。
田北雄気は1996年シーズン全試合に出場、リーグ戦30試合にフルタイム出場して、1枚も警告を受けず、またチームのリーグ最小失点に貢献する活躍を見せた。
1997年からは土田と田北の熾烈な正GK争いが続いた。
1997年、1998年はほぼ半分ずつ田北雄気と出場を分け合った。
しかし1999年、2000年は出場機会がなく2000年限りで現役を引退。
Jリーグ通算9年間で134試合の出場記録を残した。
土田尚史の引退後と現在
土田は引退後、2001年に浦和のコーチに就任。
GKコーチとして2018年まで浦和の躍進を支えた。
2023年はスポーツダイレクターとして浦和を支えている。
これだけ長期間に渡り同一クラブのGKコーチを務める事は非常に珍しい。
土田尚史コーチの元で、都築龍太、山岸範宏、西川周作など日本を代表するGKが浦和から輩出されている。コーチとしても非常に優秀であるということだろう。
土田尚史は現役時代、ライバルである田北雄気とほとんど口を聞かず、目を合わせる事もほぼなかったという。
闘志あふれるプレーを身上とした土田と常に冷静な判断が武器の田北。
2人とも対照的なプレースタイルだったが、ともに浦和を代表する偉大なGKである。
現在は2人とも現役を引退し、田北は横浜FCでGKコーチを長年にわたり務めている。
土田と田北が普通に話せるようになったのは、土田がコーチ兼任となって実質的に現役を離れた時からだという。
その時、田北は自分の闘志を支えてきたのが土田であったことに気づき、それ以来かけがえのない親友になったという。
私はこの話を聞いて、ますますサッカーが好きになった。