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立石智紀の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第377回】

Jリーグ開幕からジェフ市原に在籍し、16年間という長い年月、Jリーガーとして活躍したGK立石智紀。

正GKとして出場したシーズンは限られたが、安定したセービングと的確なコーチングが持ち味で、2008年にはJリーグ新記録となるベンチ入り251試合を達成した。

長い下積み生活を過ごした立石は、2005年のナビスコカップ決勝で、ガンバ大阪の遠藤保仁のPKをストップするなど、ビッグセーブを連発しMVPに輝いた。

日陰でジェフを支えてきた苦労人が栄光を手にした瞬間、スタジアムには割れんばかりの拍手が鳴り響いた。

立石智紀のJリーグ入り前


立石は1974年に千葉県に生まれた。

船橋市立行田東小学校に入学後、サッカーを始め、行田東FCに入団した。

船橋市立行田中学校進学後にサッカー部で活躍し、堀越高等学校へ進学。立石の1学年上に新條宏喜(FC東京)、2学年上に奥原崇(FC東京)がいる。

堀越時代は、高校2年次に選手権に出場。立石は2年生ながら正GKとして出場し、1回戦で荒尾高校をPK戦の末に下し、2回戦で米子工を1-0で破りベスト16にっ進出。

3回戦では浅利悟(FC東京)や室井市衛(鹿島アントラーズ)をようする武南高等学校と対戦し0-5で敗れた。

インターハイには2年次から2年連続で出場し、3年次には東京都選抜として国体に出場した。

堀越卒業後、ジェフ市原に入団する。

立石智紀のJリーグ入り後

1993年にジェフに入団するも、ジェフには日本代表の下川健一と、元日本代表の加藤好男がいたため、高卒ルーキーの立石に出場機会はなかった。

1994年は加藤好男が引退したため、ベンチ入りを経験するも出場機会はなかった。

1995年5月13日、サントリーシリーズ第16節横浜マリノス戦でもベンチ入りしていたが、前半37分に下川健一が退場となり、Jリーグ初出場を果たす。
この試合は途中出場という難しい状況ながら、ビッグセーブを連発し2-1の勝利に貢献。この試合のマンオブザマッチ(MOM)に選出された。このシーズンはリーグ戦10試合に出場した。

しかし1996年、1997年は正GK下川健一の牙城は崩せず出場機会はなかった。また、札幌から移籍してきたベテランGK白井淳がサブに回ったため、ベンチ入りの機会も減った。

1998年は出場機会を求め、アビスパ福岡へレンタル移籍。

正GKの座をベテランGK佐野友昭や生え抜きの塚本秀樹、元日本代表の古川昌明と争うことになったが、3試合の出場に留まり1年でジェフに復帰した。

1999年にジェフに復帰し、守護神の下川健一が2001年に横浜Fマリノスへ移籍するも、大型ルーキーとして期待された櫛野亮が正GKとして起用されたため、立石はまたもやサブに回ることになった。

2004年からは背番号1を背負う。2005年はカップ戦の正GKとして出場を続け、安定した守備でジェフの連勝を支えた。
11月5日のガンバ大阪との決勝戦では、前半からビッグセーブを連発し、アラウージョと大黒将志の強力なツートップのシュートをことごとく防いだ。
試合は0-0のままPK戦に突入。ガンバの1人目のキッカーはPKの名手である遠藤保仁であったが、冷静な判断で右に飛んでシュートを防いだ。
ジェフの選手は全員が決めたため、このビッグセーブが決定打となり、ジェフの優勝に大きく貢献することとなり、立石はMVPを獲得した。

2006年からは櫛野亮や岡本昌弘と正GKの座を争うことになったが、2006年はリーグ戦21試合。2007年はキャリアハイとなる26試合に出場した。

2008年は出場試合が前年の3分の1ほどに留まり、この年限りで現役を引退した。

立石智紀の引退後と現在

立石は2008年に現役引退後、長年在籍したジェフ千葉でコーチに就任。

U-13のGKコーチを務めている。

立石は16年間の現役生活の中で、リーグ戦とカップ戦合わせて126試合に出場しているが、長い現役生活を考えると決して多くない数字だ。
しかし立石がセカンドGKとしてベンチ入りした試合数は251試合。これは2008年当時歴代1位だった。(2009年に鹿島の小沢英明が記録を更新した)

道のりは決して平たんだったわけではない。1993年、Jリーグが開幕し、野望を抱いてジェフに入団した当初は日本代表の下川健一が君臨していた。下川の移籍でやっとチャンスが巡ってきたと思いきや、櫛野亮や岡本昌弘といった若手が起用され、再びサブに回った。

それでも立石は腐らずにトレーニングを続け、準備を怠らなかった。自分にできることを日々続けたのだ。

ジェフでキャプテンを務め、日本代表にも選出された経験のあるMF佐藤勇人は現役時代、尊敬する人物に立石智紀の名を挙げてこう話している。

「立さんは、自分がユースのときからサテライトでずっと一緒にやっていて、ずっと第2キーパーだったんですけど文句を言わずにずっと一生懸命練習していた。やっとチャンスを掴んだ後もぶれずに真面目に練習していた。プロにはいろんなタイプがいるけどこういう選手はあまりいない。」

2005年のナビスコカップMVPの雄姿を思い浮かべるファンも多いだろうが、その輝きは一朝一夕に放たれたものではない。
苦しく辛い日々があったからこそ、あの日誰よりもまぶしい光を放つことが出来たのだ。

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