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田中英雄の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第456回】

フレシキブルにピッチ内を走り回る中盤のダイナモ田中英雄。

練習生としてヴィッセル神戸に加入すると、尽きることのないスタミナを代名詞にレギュラーを奪取。

本職のボランチだけでなく、サイドバック、サイドハーフまでこなせるユーティリティプレーヤーとして活躍した。

神戸には13年間在籍し、チームのために最後まで献身的にプレーする姿は多くのサポーターを魅了した。

田中英雄のJリーグ入り前


田中は1983年に熊本県宇城市に生まれた。

宇城市立豊野小学校5年生の時に、担任がサッカー部の監督だったことでサッカーを始める。

宇城市立豊野中学校後はサッカー部に所属。
母子家庭で育った田中は、中学生活の中で1日も休まずに新聞配達のアルバイトをしながらサッカーを続けた。

高校は地元の強豪である熊本県立大津高等学校を選択。
同学年に原田拓(名古屋グランパス)、1学年下に宮崎大志郎(ロアッソ熊本)、時久省吾(ヴァンフォーレ甲府)、矢野大輔(ガンバ大阪)らがいる。

選手権には高校2年次より2年連続で出場。
高校2年次には2回戦で大分鶴崎に0-4で敗れ、高校3年次には1回戦で修徳高校にPK戦の末に敗れている。

高校卒業後は鹿屋体育大学へ進学。
大学2年次に母親が脳梗塞でこの世を去り、一時は大学を中退して働くことを考えるも、家族の支えにより大学でサッカーを続ける。
大学3、4年生では九州大学選抜に選出。大学4年次には九州大学サッカーリーグの得点王に輝いた。

大学卒業後はサガン鳥栖へ入団する予定だったが、直前に破断となり練習生として加入したヴィッセル神戸へと入団が決まる。

田中英雄のJリーグ入り後

2005年にヴィッセル神戸に入団すると、同年7月13日第16節東京ヴェルディ戦で三浦淳宏と交代で終了間際にJリーグ初出場を果たす。
しかし同年の神戸は年間で僅か4勝しかできずJ2に降格した。

2006年はシーズン中盤にレギュラーを掴み、リーグ戦37試合で7ゴールの活躍を見せる。
年間順位3位となった神戸は福岡との入れ替え戦に臨み、アウェーゴール・ルールにより1年でのJ1復帰を果たした。

2007年はボッティとのコンビで不動のボランチとして活躍。
持ち前の運動量で神戸の中盤を支配した。

神戸にはその後も2013年シーズン途中まで在籍。
売りであるスタミナだけでなく、ボールを奪うとキレのあるドリブルで前へ運ぶ推進力は神戸の大きな武器となった。

2014年7月、シーズン途中に出場機会を求め、J2京都サンガへレンタル移籍。
移籍間もなく、8月3日第25節水戸ホーリーホック戦でで京都でのデビューを果たすと、中盤の運び役として貴重な役割を果たした。

2015年はヴィッセル神戸へ復帰。
スタメン出場は限られたが、終盤に投入されるとクローザーとしての役割をしっかりと果たした。

2018年はJFLのテゲバジャーロ宮崎へ完全移籍。
海外移籍も視野に入れ、韓国のチームへ練習参加をしたが話がまとまらず、34歳でのJFL挑戦となった。

同年の宮崎は1stステージを3勝12敗で最下位で折り返すなど苦しいシーズンとなったが、田中は衰えない運動量で中盤を支えた。
このシーズンの途中、J2カマタマーレ讃岐へレンタル移籍。最下位に沈むチーム状況でありながらも奮闘し、リーグ戦13試合に出場した。

2019年は関西1部リーグのFCティアモ枚方へ移籍。
野沢拓也、二川孝広、武田博行といったJ経験者とともにチームを支え、2020年にはJFL昇格に貢献した。

2021年には右膝前十字じんたい断裂という大怪我を負い、長期離脱。

2022年、39歳で現役引退を発表した。

田中英雄の引退後と現在

田中は引退後、アシックスの『クロッシングサポートパートナー』に就任。

大阪府吹田市を拠点に、パーソナルトレーニングの指導や普及活動を行っている。

苦しい時こそ走り続けるという田中英雄のプレースタイルは、ついに現役引退まで変わることはなかった。

チームがピンチを迎えれば自陣深くまで戻って身体を張った守備で窮地を救い、チャンスとみるや驚異の運動量で攻撃を牽引した。

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