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北本久仁衛の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第455回】

ヴィッセル神戸の象徴・北本久仁衛。

奈良育英高校を卒業後に神戸に加入すると、18シーズンに渡って在籍しリーグ戦394試合に出場した。

空中戦に強く、対人プレーに絶対の自信を持つセンターバック。

統率力もあり、最終ラインのDFリーダーとして神戸に欠かせない存在であった。

2013年には肋骨に悪性の腫瘍が見つかるも僅か6ヶ月でピッチに戻るという鉄人ぶりを発揮した。

北本久仁衛のJリーグ入り前


北本は1981年に奈良県奈良市に生まれた。

幼稚園の頃にサッカーを始め、奈良市立登美ヶ丘小学校入学後、登美ケ丘サッカークラブに入団する。

奈良市立登美ケ丘中学校入学後、サッカー部で活躍し、地元の名門である奈良育英高校へ進学。
高校時代の1学年上に広野耕一(名古屋グランパス)、1学年下に西嶋弘之(サンフレッチェ広島)がいる。

高校時代はボランチとしてプレー。
選手権には3年連続で出場。
奈良県選抜として高校2年次から2年連続で国体に出場した。

3年次の選手権では、キャプテンとしてチームを牽引。
1回戦で韮崎を、2回戦では青森山田を下し、ベスト16に進むも、菅原太郎らのいる静岡学園に1-3で敗れ、ベスト8進出はならなかった。
北本はこの大会の優秀選手に選手された。また、同年にU-18日本代表候補に選出されている。
選手権終了後はU-19日本代表候補の合宿に参加した。

この活躍を受け、高校卒業後にヴィッセル神戸に入団した。

北本久仁衛のJリーグ入り後

2000年にヴィッセル神戸へ入団。
早くから土屋征夫の後継者として期待されるも、1年目は公式戦出場はなかった。

2001年6月16日、1stステージ第11節サンフレッチェ広島戦でベンチ入りを果たすと、後半途中に松尾直人と交代でJリーグデビューを果たす。
同年はリーグ戦6試合に出場し経験を積んだ。

2002年は開幕戦の清水エスパルス戦から先発出場。
土屋征夫シジクレイと3バックを形成し、リーグ戦22試合に出場した。
またこの頃から頭髪を剃り、スキンヘッドにしている。
同年10月12日の2ndステージ第8節鹿島アントラーズ戦ではJリーグ初ゴールを決め、1-0での勝利に貢献した。

神戸で不動のレギュラーとして活躍する一方、年代別日本代表にも選出される。
2003年には神戸からU22日本代表に唯一選出され、香港・カタール遠征に参加した。またこの年から背番号を4に変更。

その後もU-23日本代表に選出されるが、2004年のアテネオリンピックの本戦メンバーからは漏れた。
林卓人(サンフレッチェ広島)、前田遼一(ジュビロ磐田)、坂田大輔(横浜Fマリノス)とともにバックアップメンバーに選出された。

2005年も守備の要としてリーグ戦33試合に出場するも、第7節に最下位に転落して以降、一度も最下位を脱出できず、11月20日の大宮アルディージャ戦に敗れるとJ2に降格した。

2006年も神戸に残留し、バクスター監督のもとで右サイドバックを経験した。
この年は積極的な攻め上がりと空中戦の強さを発揮し、キャリアハイとなるリーグ戦5ゴールをマークし、神戸の1年でのJ1復帰の原動力となった。

その後も神戸でDFリーダーとして活躍。
2007年から2010年までは副キャプテンをつとめ、ピッチ内外で存在感を発揮した。

2011年には出場停止もなくリーグ戦全試合に出場を果たした。

2012年にはJ1通算300試合出場を達成。

2013年1月、肋骨に悪性腫瘍が見つかり、手術を受けることになる。
昨年J2に降格したことも受け、北本にとっては試練が重なる形となったが、手術から僅か6ヶ月でピッチに戻るという鉄人ぶりを発揮し周囲を驚かせた。

2014年以降は出場機会が減少するが、ベテランとしてチームを支えた。

2018年はリーグ戦1試合の出場に留まり、この年限りで18シーズン在籍した神戸を退団。

2019年はタイに渡り、タイ・リーグ3部のシモークFC、チャムチュリー・ユナイテッドFCでプレー。同年シーズン終了後、現役引退を発表した。

北本久仁衛の引退後と現在

北本は引退後、ヴィッセル神戸のスクールコーチに就任。

2020年からはトップチームのアシスタントコーチを務めている。

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