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武田治郎の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第460回】

身長178センチと小柄ながら果敢な飛び出しでゴールマウスを守るGK武田治郎。

安定感のある守備が持ち味で、若くしてセレッソ大阪のJリーグ昇格後の初代GKとして活躍。

その後元ブラジル代表GKジルマールにポジションを奪われるも、将来のセレッソの守護神として期待された逸材。

ヴィッセル神戸時代には正GKとして活躍。真面目な性格で知られ、選手会長としてもチームを牽引した。

武田治郎のJリーグ入り前


武田は1972年に愛媛県松山市に生まれた。

松山市立道後小学校入学後に本格的にサッカーを始める。

松山市立道後中学校卒業後、地元の強豪である松山商業高校へ進学し正GKとして活躍した。

選手権には1986年から5年連続で南宇和が出場したため、出場機会はなかった。

高校卒業後、日本サッカーリーグ2部のヤンマー(セレッソ大阪)へ入団する。

入団後3年間は正GK伊藤裕二の影に隠れ、出場機会がなかった。

入団4年目の1994年は、武田亘弘が起用されたため、2試合の出場に留まった。
同年、ヤンマーは名称を「セレッソ大阪」と改め、Jリーグ準会員としてJFLで優勝しJリーグに昇格する。

武田治郎のJリーグ入り後

1995年3月18日、サンフレッチェ広島とのJリーグ開幕戦でゴールマウスを守り、1-0での勝利に貢献した。

その後もチーム唯一の社員選手として活躍し、名古屋戦、清水戦と連勝し、Jリーグ参入から3連勝を飾った。

しかし第4節ジュビロ磐田戦で4失点をし敗れると、第5節鹿島アントラーズ戦からは、同年入団した元ブラジル代表のジルマールが起用されるようになった。
同年はジルマールが欠場した試合でゴールマウスを守りリーグ戦12試合に出場した。

その後は1997年にジルマールが退団するまでセカンドGKとしてベンチを温める日々が続く。

1998年は下川誠吾が正GKとして起用されたため、リーグ戦出場がなくこの年限りでセレッソを退団した。

1999年はヴィッセル神戸へ移籍。
前田信弘や安藤信也と熾烈なポジション争いを演じるも、川勝良一監督の信頼を勝ち取りリーグ戦20試合に出場。
しかし同年9月に右すねを疲労骨折。12月には左足首を手術するなど故障に悩まされたシーズンとなった。
この年から選手会長に就任し、ピッチ内外でチームを牽引する立場となった。

2000年には前年の怪我を乗り越え、キャリアハイとなるリーグ戦28試合に出場した。

しかし2001年は掛川誠が起用されたため、リーグ戦1試合の出場に留まった。
晩年には膝の怪我に悩まされていたため同年限りで現役を引退した。

武田治郎の引退後と現在

武田は引退後、GKコーチとして活躍。

2002年にヴィッセル神戸のスクールコーチとしてキャリアをスタートさせ、2005年からはヴィッセル神戸トップチームのGKコーチを8年間務めた。

その後はガイナーレ鳥取GKコーチ、ギラヴァンツ北九州GKコーチ、FC町田ゼルビアGKコーチを歴任。

2023年からはJ2いわきFCのGKコーチに就任している。

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