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梶野智の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第407回】

強いキャプテンシーとハードワークが持ち味の梶野智。

攻撃の芽を摘む守備的なMFとして活躍し、初代キャプテンとして創世期のセレッソ大阪を牽引した。

現役晩年を過ごしたコンサドーレ札幌では精神的支柱としても存在感を示し、屈強なセンターバックとして守備を支えた。

現役時代からヒゲを伸ばしており、梶野智のトレードマークと知られている。

梶野智のJリーグ入り前


梶野は1965年に愛知県に生まれた。
5つ上の兄・智幸(ガンバ大阪)の影響で幼少期からサッカーを始める。

中学卒業後、岡崎城西高等学校へ進学。
選手権への出場は叶わなかったが、3年次に出場したインターハイで全国ベスト8に進出した。

高校卒業後、東京農業大学へ進学。1学年下に神田勝夫(セレッソ大阪)、3学年下に小島光顕(サンフレッチェ広島)がいる。

東京農大卒業後、ヤンマーディーゼルサッカー部(現セレッソ大阪)に入団。

ヤンマーではネルソン吉村監督のもとで、2年目から出場の機会を掴むが、3年目のシーズンは2部降格となった。
この年、森島寛晃とともにサンパウロFCへ2ヶ月の留学を経験する。

日本へ帰国後、ヤンマーとプロ契約を締結する。

1993年、ヤンマーはセレッソ大阪に改称。

1994年、梶野はセレッソ大阪の初代キャプテンに就任し、JFLでの優勝に貢献。翌年からのJリーグ参入が決定する。

梶野智のJリーグ入り後

1995年3月18日、セレッソの記念すべき開幕戦となったサンフレッチェ広島戦で背番号11を背負い、先発出場。
マルキーニョス、佐々木博和の後ろでプレーし1-0での勝利に貢献した。
この年はボランチやセンターバックとしてシーズンを通してレギュラーとして活躍しリーグ戦47試合に出場し3ゴールをマークした。

1996年からは出場機会を減らすが、神田勝夫とのコンビで主にセンターバックとして出場した。

1998年にコンサドーレ札幌に移籍。
センターバックとして活躍。第10節ヴェルディ川崎戦では札幌での初ゴールを記録した。
この年の札幌は年間順位14位となり、Jリーグ下位4チームとJFL優勝チームによるJ1参入決定戦に参戦。
梶野は全4試合に出場するが、札幌は全敗し翌年のJ2での戦いが決定した。

1999年シーズン終了後、現役を引退した。

梶野智の引退後と現在

梶野智は引退後、セレッソ大阪のスクールで指導者としてのキャリアをスタート。

その後もセレッソでスカウト担当、マーケティングディレクターなどを歴任し、2019年からチーム統括部長に就任。
現役時代に共にセレッソでプレーした森島寛晃社長とともにセレッソを支えている。

また、梶野は2015年に立ち上げた関西レジェンドクラブの代表理事としても活動。

関西レジェンドクラブとは関西の4つのJクラブであるガンバ大阪、セレッソ大阪、京都サンガ、ヴィッセル神戸に所属した選手なら誰でも参加できる組織であり、これまでレジェンドマッチなどの活動をしている。

梶野が「関西サッカーを盛り上げたい」という気持ちで始めたこのプロジェクト。
これまでも関西レジェンドクラブによって様々なチャリティーマッチが企画されているが、OB達の交流の場にもなり、サポーターにとっても応援していた選手たちがピッチの上で楽しそうにボールを蹴る姿を見れるのは貴重な機会である。

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