両足から繰り出される正確なキックと正確な判断力を持ったインテリジェンス溢れるプレーヤー高木純平。
清水エスパルスの生え抜きとしてトップチームに昇格し、サイドバックからボランチ、サイドハーフ、トップ下など様々なポジションをこなすユーティリティプレーヤーとして活躍した。
様々なポジションをこなせるため、移籍したコンサドーレ札幌、モンテディオ山形、東京ヴェルディでも重要な役割を担った。
高木純平のJリーグ入り前
熊本市立託麻原小学校に入学後、5年生の時に本格的にサッカーを始めた。
熊本市立帯山中学校入学後、1年生の時に父親の転勤を機に静岡県へ引っ越し静岡市立清水第二中学校へ転校。
兄と共に清水エスパルスジュニアユースのセレクションを受け合格。
清水商業高校進学後、エスパルスユースへ昇格。
当初はFWとしてプレーするも、2年次にサイドプレーヤーとしてコンバートされ頭角を現す。
ユース時代はクラブ選手権や高円宮杯でベスト4入りを果たした。
SBSカップでは静岡選抜としてプレーし永田充、小林大悟、菊池直哉、成岡翔、佐野裕哉らとともに出場。
オランダのユトレヒトやブラジルのパルメイラスと対戦し、静岡選抜は3位に入った。
高校卒業後、トップチームへ昇格。
同期に村松潤、鈴木隼人、鶴田達也、塩沢達也がいる。
高木純平のJリーグ入り後
入団2年目の2002年9月14日2ndステージ第3節ガンバ大阪戦でベンチ入りを果たすと、後半開始から古賀琢磨と交代でJリーグデビューを飾った。
同年9月28日第6節浦和レッズ戦では、右サイドバックとして先発出場を果たすと後半28分にJリーグ初ゴールをマーク。
以降は右サイドバックとして先発に定着し同年はリーグ戦10試合に出場1ゴールを記録した。
2003年は1stステージは出場機会が少なかったが2ndステージからはボランチとして出場機会を得る。
2004年以降はサイドハーフやトップ下としても出場。器用さを生かして様々なポジションでプレーをした。
2006年序盤はこの年の新人王を獲得した藤本淳吾の控えに回るも、トップ下やボランチとして中盤を支え、リーグ戦26試合に出場し2ゴールを挙げた。
この年エスパルスは2005年の年間順位15位から4位に上がるなど躍進した。
2007年以降は先発での出場は多くなかったが、ユーティリティ性を発揮。
右サイドバック市川大祐のバックアッパーを主軸に様々なポジションで活躍した。
2010年7月、出場機会を求めてJ2コンサドーレ札幌へレンタル移籍。
石崎信弘監督により高い技術とユーティリティ性を評価され、後半の巻き返しの切り札として期待される。
チームへの合流間もない7月18日第18節ジェフ千葉戦で途中出場を果たすと、その後は左ハーフやFWとしても起用された。
2011年はコンサドーレ札幌へ完全移籍。
開幕戦の愛媛FC線から左サイドハーフとして活躍。
その後は右ハーフや右サイドバックとしても大車輪の活躍を続けリーグ戦36試合に出場。
札幌の4年ぶりのJ1復帰の原動力となった。
2012年は右膝半月板損傷を負うなど苦しいシーズンとなった。
リーグ戦での出場は17試合に留まり、チームも4勝2分28敗の勝点14で最下位となり1年でJ2へ降格することになった。
2013年は清水エスパルスへ復帰。
右サイドバック吉田豊の控えとなり出場機会は限られたが、生え抜きのベテランとしてピッチ内外でチームを支えた。
2015年シーズン開幕後の3月に石崎信弘監督が率いるモンテディオ山形へ移籍。
怪我人が相次いだDF陣の穴埋めとして活躍しリーグ戦12試合に出場したがチームはJ2へ降格。
2016年はJ2の東京ヴェルディへ移籍。
加入1年目は主にボランチで出場し、攻守のつなぎ役として活躍。リーグ戦21試合に出場した。
2017年は3試合の途中出場に留まり、この年をもって現役を引退した。17年間の現役生活に別れを告げた。
高木純平の引退後と現在
高木は現役引退後、2018年に清水エスパルスに入社しホームタウン営業部に所属した。
その後広報部に配属され、2022年11月より広報部長に就任している。
清水エスパルスを世界に通じるクラブにするのが夢だと語っている高木純平。
高木は広報として、小学校を訪問し清水エスパルスや地域への愛着醸成を図るための特別授業「エスプラス」の開催や、クラブ公YouTube「THE REAL」の配信など、多方面で清水エスパルスの情報を精力的に発信し続けている。