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高田哲也の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第430回】

精度の高い左足でのキックに定評のあるボランチ高田哲也。

センターバックやサイドバックもこなし、プレースキックも担った。

現役時代はベルマーレ一筋で、1997年以降はベルマーレ唯一の社員選手としてプレーした。

1999年、メインスポンサーが撤退しベルマーレは存続の危機に立たされるが、選手会長も務めた高田哲也はピッチ内外で存在感を示した。

高田哲也のJリーグ入り前


高田は1969年に広島県に生まれた。

小学校でサッカーを始め、中学校卒業後に広島国泰寺高校へ進学しサッカー部に所属する。
3学年上に吉田安孝(サンフレッチェ広島)、1学年下に大神友明(ジュビロ磐田)がいる。

高校時代は選手権への出場は叶わなかったが、高田が卒業翌年から3年連続で広島国泰寺高校は選手権に出場している。

高校3年次には広島県選抜に選出され、国体に出場しベスト8入りに貢献した。

高校卒業後、福岡大学へ進学。

大学卒業後の1993年に、社員選手としてJFLのフジタ(藤和不動産サッカー部 現湘南ベルマーレ)に入団する。
この年、藤和不動産サッカー部はベルマーレ平塚に改称。リーグ戦で16勝2敗という成績で年間優勝を飾り、翌年のJリーグ参戦が決定した。

高田哲也のJリーグ入り後

1994年のNICOSシリーズ開幕戦であるヴェルディ川崎戦で、後半途中から公文裕明と交代でJリーグ初出場を果たすと、その後はレギュラーに定着。
ボランチやサイドバックとしてリーグ戦15試合に出場し、ベルマーレは昇格組ながらリーグ戦2位になるという旋風を巻き起こした。
またこの年の天皇杯では、決勝でセレッソ大阪を2-0で破り優勝を果たしている。

1995年はゼロックススーパーカップに先発で出場。
2-2のままPK戦に突入し、高田は1本目のキッカーを担うが失敗。4人目の中田英寿も外し、ヴェルディ川崎が勝利している。

この年の第3節ジェフ市原戦ではJリーグ初ゴールを決め、勝利に貢献。
5月13日のサントリーシリーズ第16節ガンバ大阪戦では貴重なゴールを決め勝利に貢献。高田はこの試合のマンオブザマッチに選出された。
ホーム最終戦のヴェルディ川崎戦では、後半ロスタイムにミドルシュートを決め2-1での勝利に貢献している。
このシーズンはボランチながらリーグ戦27試合の出場で4ゴールを奪う活躍を見せた。

1996年は、サブに回る機会が増えたが、ボランチやセンターバックの守備要員として活躍。
主に途中出場でリーグ戦12試合に出場した。

1997年は選手会長に就任。背番号12を背負うようになる。
相手エースを封じ込めるマンマークと精度の高い左足でのプレースキックを武器にリーグ戦28試合に出場した。

1998年以降はベルマーレ唯一の社員選手としてプレー。
センターバックやサイドバックとしてチームを牽引した。

1999年、ベルマーレのメインスポンサーであるフジタが経営再建のためスポンサーから撤退し、主力が続々と退団する中でも残留を表明。
ベルマーレは年間で4勝しか挙げられず、J2の降格が決定。そんな状況の中、高田はピッチ内外で存在感を発揮し、チーム存続の危機を支えた。

2000年、ベルマーレ平塚は湘南ベルマーレへ改称。
J2からの再出発となったが、加藤久監督のもとでベテランとして若いチームを支えた。
シーズン序盤はコンスタントに出場していたが、終盤は出場機会が激減し、この年を持ってフジタ時代から在籍したチームを退団し現役を引退した。

高田哲也の引退後と現在

高田は引退後、指導者に転身。

2001年から湘南ベルマーレでユース監督やトップチームコーチを務めた。

2009年から名古屋グランパスで下部組織の指導を担い、2018年からはサンフレッチェ広島でユースの指導に当たった。

2023年からは大分トリニータのアカデミーヘッドオブコーチングに就任している。

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